1・マスター
その人は、みんなから「マスター」と呼ばれていた。喫茶店や何かをやっていたわけではない。某映画に出てくる緑の肌の光る剣術使いに似ているわけでもない。誰がそう呼び始めたのかも分からなかったけれど、とにかくその人は、マスターと呼ばれていた。
その人の年齢は分からない。恐らくまだ中年と呼ぶには早く、もう若造と呼ぶには老けている、という事しか分からない。30代の半ば、というのが、みんなの一致した意見だった。
その人の仕事も分からない。誰も働いているのを見たことがないし、働いている姿が想像もつかない風体をしているからだ。簡単に言えば、みすぼらしかった。髪はぼさぼさ。元は茶色であったであろうベージュのチノパンをはき、元は黒かったであろうグレーの薄いコートを着ていた。いつも、同じ服。夏でも冬でも、晴れでも雨でも。でも、みすぼらしい格好ではあったけど、風格があった。王者の風格、というのとはまたちょっと違うのだけど、少しも自分を恥じていないようだった。毅然としていて、それでいて威張った風ではなくて、街の人からは結構好かれていた。だからこそ、マスターなんて愛着を込めて呼ばれるのだろうけど。
マスターはとにかく謎だらけだった。家が何処かも分からなかった。いつもふらりと現れてふらりと去っていく。何をしようとしているのかも分からない。いつからいるのかもよくわからなかった。そして何より、誰も彼の本名を知らなかった。
そんな謎だらけのマスターの、好きなものだけはみんなが知っていた。彼の好きなものは、ミステリーだった。
2・幼馴染み
俺はいつものように、幼馴染みの矢吹舞(やぶき・まい)と一緒に、高校の帰りに商店街を歩いていた。いつもこうしているとマスターに会えるので、俺たちはもう毎日のように商店街に来ていたのだ。
マスターと話をするのはとても楽しかった。彼は今までに遭ってきた不思議な出来事の話をしてくれた。それは推理小説にも劣らないほどのミステリーで、しかもそれを、マスター自らが解いてきたと言うのだ。それが本当かは分からないけれども、俺と舞を夢中にするには十分すぎるほどだった。
「ねぇ、マスター今日はどんな話してくれるのかなぁ」
舞が横を向いて俺に話しかけてきた。
「さぁ……面白い話だろうってことだけは間違いないな。それより舞、前……」
――ドシン!
危ない、と言う前に、舞は床屋の前の、三色でくるくる回ってるあれにぶつかった。
「ぅ〜……痛い……」
「まったく、昔からそーゆーところは変わってないよな」
舞は昔からそうだった。何かに興味が向くと、他のことに対して注意力が散漫になってしまうのだ。一応同い年のはずなんだけど……どうもそうは見れない。実際は兄弟姉妹は居ないけど、妹が居る気分だった。
「ぅ〜、孝次(たかつぐ)が注意するのが遅いのが悪いんだよ〜!」
「な、人のせいにするなよ!」
とは言いつつも、それなりに責任を感じたので、尻餅をついたままの舞を立たせてやった。
「よいしょっ、と。ありがと」
と、舞は笑顔で言った。
――こーゆー時の舞は、本気で可愛いと思う。ちょっと……というかかなり、天然が入っているので、やること為すことが一々無邪気なのだ。やはり、無邪気な笑みは可愛い。……そのせいで学校でもかなりの人気で、密かにファンクラブなんてのが出来ているのは舞は知らないだろうが。まぁ、俺の「可愛い」と、奴等の「可愛い」は、立場が違う。俺の場合は兄としての立場に近いからな。
「あ、孝次あぶな……」
――ガン!
「い、いてぇ……」
馬鹿なことを考えていたら、前にフライドチキンのあのおじさんが迫っているのに気付かなかった……。
「舞、注意が遅い……」
「孝次よりは早かったよ」
と、舞は悪戯っぽく言った。
「――やぁ、今日も仲が良いね」
「あ、マスター」
舞が見た方を見ると、そこにはいつものスタイルのマスターが立っていた。
「マスター、今日もミステリー話聞かせて〜」
舞が目を輝かせてマスターに頼んだ。それを見て、マスターは優しく微笑んだ。
「お安いご用です、お姫様」
「やったぁ! じゃあ、早く行こう!」
舞がマスターの腕を引っ張る。それをやんわりと制し、マスターは俺に向かって言った。
「ナイト様も参りましょうぞ」
ちょっと嬉しくなって、俺は大きく頷いていた。「――うん!」
3・喫茶店
俺たちは、いつも使っている喫茶店に向かった。『喫茶ナカノ』というその店は、店長の中野おじさんが30年間続けてきた店で、この商店街ではかなりの老舗に入るものだった。それだけに、店にも雰囲気があり、若い人にはあまり好まれないが、大人たちの間ではかなり人気のある喫茶店だった。
「やぁ、今日も来たんだね。マスターに舞ちゃんに孝次君」
店に入るとすぐに、おじさんが気付いて言った。
「えぇ。いつものを、お願いします」
マスターは笑顔でそう頼むと、いつもの席――店の一番奥の席に座った。俺と舞はその向かいに座る。
「さて、今日はなんの話をしようか? まだ話してないものはたくさんあるけど……」
と、彼は少し考え、ポンと手を打った。
「そうだ、君達も話を聞いてばかりではつまらないだろう。自分達で謎を解いてみたら良い」
「俺たちで?」
「そう、君達でだ。ちょうど今、不思議な事件がこの街で起きているんだよ」
俺と舞は顔を見合わせた。そして、次の瞬間には、マスターに詰め寄っていた。
「是非、やりたいです!」
「ははは、そんなに迫らなくても事件は逃げやしないよ」
マスターが笑って言うと、おじさんがコーヒーを三つ運んできた。
「なんだい、なんだか楽しそうだねえ」
「えぇ、若い子たちといるのは楽しいです。――ぁ、どうも」
コーヒーを配るおじさんに、マスターは笑って言った。
「良いねぇ。俺なんかは若い子たちと話そうにも話しについていけなくってね。もう歳だよ」
と、おじさんもおどけて言うとカウンターの中に戻っていった。
「それでマスター、今この街で起こっている事件って、一体なんなの?」
痺れを切らしたように、舞が聞いた。
「まぁ、そう焦らずに。これから話すことにヒントになるようなことが含まれてるかもしれないんだから、焦ってたら聞き流すかもしれないよ」
と、マスターはおじさんの淹れてくれたコーヒーを啜った。俺と舞も、それに習うようにコーヒーを飲む。
「――さぁ、何から話し始めようかな……と言っても、そんなに話すことがあるわけじゃないんだけどね。なにしろ本当に最近起こった――というか、まだ続いている事件だから」
「ぇ、今もまだ?」
俺が聞くと、マスターはちょっとおどけた風に、
「そう、現在も進行中だ」
と、答えた。
「いつからですか?」
今度は舞が聞いた。
「そうだなぁ……3日くらい前からかな」
「それじゃあ、その事件っていうのは?」
「この商店街に『たけや』っていう金物店があるのは知っているだろう。 そこに、亮太っていう一人息子がいるんだが、知ってるかな?君らの二つ上だったと思うけど」
「えぇ、知ってます」
「あのちょっと不良っぽいあんちゃんだろ?」
「うん、まぁ、見た目はね。――彼は駅前のゲームセンターによく入り浸っているんだが、ここのところ、今までより長い時間ゲームをしているようになったんだ。――これが、まず一つ目の謎」
「……ぇ、それだけ?」
なんにも謎とは思えないことに、俺と舞は逆に驚いてしまった。
「まぁ、まだ続きがあるんだから」
4・謎、謎、謎
「二つ目の謎は、やっぱりこの商店街に関係するんだけどね。森華亭(しんかてい)って和菓子屋さんがあるだろう?」
「えぇ、あそこのお団子美味しいから、よく食べに行きます」
「じゃあ、あそこの看板娘の詩織ちゃんは見たことあるね?」
「あぁ、あの可愛い子でしょ?」
俺が言うと、舞がチラと俺を見た。
「あぁ、あの子は今中学3年生なんだが、最近、前よりもかなり綺麗になってね。森華亭の売り上げも上々なんだそうだ」
「誰かさんみたいに鼻の下を伸ばしてる人がいるからね」
「まぁ、そうだね」
と、マスターは苦笑した。――そこで何で苦笑するんだ?
「――で、それの何処が謎なんですか?」
俺は二人のわけの分からない会話を無視することにした。
「急に以前より綺麗になった。――これだけで十分な謎じゃないかい?」
「ん〜、今は恋をしてるだけとか……。ほら、良く言うじゃないですか。恋する乙女は美しいって」
と、続いて舞が反論した。
「ふむ、確かにその可能性はあるだろう。でもそこで、『彼女が最近高価そうな指輪を買ったらしい』なんて情報があったらどうだい?」
「それは、たまたまお小遣いが入ったからとか……」
「じゃあ、最後にもう一つ謎を教えよう。――最近になって、商店街の店や、近くのデパート、本屋などでの万引きの被害が激減しているそうだ。――これで、それぞれの謎の共通点が見つかるんじゃないかな?」
「共通点って言われても……分かるか、舞?」
「うぅん、全然。――マスター、何かヒントは?」
「う〜む、わからないかぁ……。出来るだけ君達の力で解いてほしいからね。それに、実はまだ私も結論には至ってないんだよ」
と、マスターは笑って言った。
「――だから、この先はまた今度集まってみることにしないかな? それまでには、私も結論を見付けておくから」
「じゃあ、次はいつ集まります?」
「ん〜そうだね、三日後に、ここで良いかな?」
「分かりました、三日後ですね。それまで、俺たちもいろいろ頭を捻ってみますよ」
「よし、じゃあ三日後に、捜査会議を開くとしようか」
マスターの一言を合図に、今日のミーティングは終了した。
「――さてと、頭を捻ってみるとは言ったものの、全然三つの謎の共通点なんて分かんないなぁ……」
喫茶店を出て、俺は商店街のアーケードを見上げた。舞も同じように上を見る。
「そうだよねぇ……」
「ゲーセンに、和菓子屋に、万引きねぇ……」
「そうだ、ねぇ」
舞が俺を見た。「――やっぱり近くなんだし、実際に会ってみようよ、最近変わったって人に」
「そうだな……じゃ、まずは森華亭に行ってみるか」
俺がそう言うと、舞は慌てて、
「ね、ねぇ、ゲームセンターから回ろうよ。ほら、順を追ったほうが何か掴めるかもしれないし」
「ん……そか、それもそうだな。んじゃ、駅前のゲーセンまで一っ走りするか!」
俺の言葉に、
「ぇ、走るの!?」
と、舞が驚きの声をあげた。
「あぁ、どっちが先に着くか勝負だ!」
と言いながら、俺は既に走り出していた。
「そんなの勝てるわけないじゃん〜」
と不平を垂れながらも、舞も俺の後を追って走り出した。
5・ゲームセンター
「――ここが、マスターの言ってたゲームセンター……?」
「あぁ、そうだよ。――もしかして、怖いのか?」
と、俺は俺の後ろに隠れている舞に向かって聞いた。
「そ、そんなことないもん」
「じゃあ、堂々と俺の隣に立てよ」
「い、いじわる〜〜!」
舞が怖がるのも、頷けなくはなかった。というか、俺自身も正直言うと結構このゲームセンターに来るのは怖いのだ。駅前の、とは言っても、実際には駅前通りから一つ中に入ったところにあり、通りからは見えない位置にあるので、人相の悪い若い男たちがよくたまっている。そのため、近隣の小・中・高校の児童・生徒は、ここには出入りしてはいけないことになっているし、特に女子生徒などは、近寄ることもしないような場所なのだ。
「怖かったら、外で待ってるか?」
「離れる方が怖い」
「そうか……」
俺たちは離れないようにくっついてゲーセンの中に入っていった。
入った瞬間、俺は煙草の煙にむせそうになってしまった。中にはどう見ても高校生という若い男が煙草をふかしていたり、昼間からビールを飲んでいるやつもいた。そして数人が俺たちに気付き、ニヤニヤと嫌な笑みを向けてきた。その内の一人が、こちらへ寄ってきた。
「おぅ兄ちゃん、なかなか可愛い子連れてるじゃねぇか。俺たちも一緒に混ぜて遊んでくれよ」
男たちは大声で笑い、俺と舞を取り囲んだ。
ヤバイ、と本気で思った。やはり、舞は置いて来るべきだったか。
しかしその時、別の場所から声を掛けられた。
「よぉ、孝次じゃねぇか」
男たちの間を割って、学ランを着た若い男がやって来た。
「もしかして……宏英(ひろひで)か?」
一瞬分からなかったが、その男は確かに、中学の頃に仲が良かった稲宮(いなみや)宏英だった。
「久し振りだな、孝次。あ、舞ちゃんと一緒か。邪魔したか?」
と、宏英は笑って言った。周りの男たちは、宏英の友人と知って、詰まらなさそうに戻っていった。
「いや、お陰で助かったよ。どうなることかと思った。――でも、なんでお前こんな所に?」
「まぁ、ちょっとした縁でな、こんな所に居座っちまってるんだ」
と、宏英は少しきまり悪そうに笑った。
「孝次、どなた?」
「あぁ、そういえば舞は宏英のこと知らなかったな。俺の中学の時の友達で、稲宮宏英って言うんだ。なんか今は茶髪になってるみたいだけど、昔は野球部のエースだったんだぜ」
「へぇ〜、エースさんですか……」
「よろしくね。こっちは一方的に君のことは知ってるんだけどね」
「え、どういうことですか?」
「そりゃあ、いつも孝次と一緒にいるような女の子がいたら、どんな関係なのかとか、知りたくなるでしょ?ま、そういうことだよ」
と、宏英は笑って言った。笑うと白い歯が見え、やはり球児であったことを窺わせた。
「……」
「まぁ、そんなことより、ちょっと聞きたいことがあるんだが……良いか?」
「あぁ、もちろん」
宏英は快く頷いてくれた。
「ここによくいる『竹や』の亮太って人に会いたいんだけど……今、いるか?」
「亮太さんか? えっと……」
と、宏英はゲーセンの中を見渡した。「――ぁ、ほら、あそこにいるぞ」
宏英の指差した方を見ると、確かに見覚えのある金髪の男がいた。
「あの人と話すんなら、気をつけろよ。キレると怖いからな」
「あぁ、ありがとう。また今度遊ぼうぜ」
「さよなら」
俺と舞は宏英に別れを告げると、奥のほうへと入っていった。