1
ガチャッという音と共に、しっとりとした声が僕の耳に響いてきた。
「はい、金沢です。どちら様でしょう?」
先輩のお母さんだ。父親でなかったので、俺はほっ、と胸をなでおろした。
「僕、先輩――いえ、絵里香さんの後輩の柳ですけど、絵里香さんいますか?」
緊張のあまり変な抑揚の日本語になっていた。少しでも気を抜くと、声が震えてきそうだ。
「柳さんですね。少々お待ち下さい」
育ちが良いのか、先輩のお母さんは淀みなく言って、保留に切り替えた。
数十秒か、もしくは数分か、よくわからないがとにかく俺にとってはとても長く感じられる時間が過ぎた。そして、そろそろかと十回ほど思った頃、
「お電話変わりました」
と、母親によく似た優しい声が聞こえてきた。
「あ、先輩。俺です、柳です」
ずっと練習していた通りに言えて、まずは好調な滑り出しだ。
「久しぶりね。どうしたの、急に電話なんかかけてきて?」
やはり、母親同様淀みがない。
俺は、考えておいたセリフを思い出しながら、
「先輩、明日うちの学校で文化祭があるの知ってますよね?」
「ええ、聞いてたわ。それで?」
先輩に気付かれぬよう、小さく深呼吸をする。
「今年の文化祭で、俺がステージで歌を唄うことになったんです。それで、もし明日先輩に暇があるんだったら、是非とも見に来て欲しいなと思ったんです」
よし、完璧。――俺は小さくガッツポーズした。
「へぇ、歌を唄うの。それで、どんな曲?」
シナリオどおりの反応だ。
「それは、明日のお楽しみです」
と、俺はもったいぶって答えた。
「それで、どうです?明日」
先輩は考える様子もなく、
「大丈夫よ。必ず行くわ」
「じゃあ、僕が出るのは午後なんですけど、出来れば午前から来てくれませんか?クラスの発表もあるんで」
先輩はそれにも二つ返事で承知してくれた。
それじゃあ、明日、と告げて、俺は受話器を置いた。うちのダイヤル式の古い電話機が、チン、と、軽い音を立てた。
2
その日は、朝から大忙しだった。
文化祭の当日なのだからそれも当然のことではあるが、我が3年5組は、大道具がとにかく手の込んだもので、それを組み立てるのが大変で、他のクラス以上に忙しかった。ステージの上でバラバラの部品を組み立てていく。最初にステージに上がる、開祭式学級にしか為せない技だ。
朝の7時集合、8時半準備完了。約1時間半も働いていた。
さて、この辺で自己紹介をしておこう。俺の名前は柳祥平(やなぎ・しょうへい)。都内の中学校に通う中学二年生だ。成績ではずば抜けたものはないが、背の高さはずば抜けている。中二にして185センチあるやつは、そういないだろう。そのお陰で、バスケ部では重要なポジションだし、結構校内の女子の人気もある。しかし、それでいてまだ一度も、誰とも付き合ったことが無いというのはどういうことだろう?まぁ、ひがんでみた所でしょうがないか。
「おはよう、柳君」
三年五組――俺のクラスだ――の控え室に戻る途中で、クラスメイトの仲村勇太が、声を掛けてきた。
「おうっ、おはよう、勇太」
「いよいよ当日だね。僕、緊張してきたよ」
そう言う勇太の顔は明るい。
「そうだな、気付いてみればあっという間だったな」
勇太と話す内に、俺の緊張は次第に薄れていった。
「柳君、確か今日ステージで唄うんだよね?」
「ああ、よく見てろよ」
「もちろんさ」
と、楽しく話していたところへ、
「勇太、何してんの!私達の準備、まだ終わってないわよ!」
大きな声で叫んでいるのは、クラスで一番可愛くてうるさい――いや、元気な、と言っておこう――保本ひかるだ。
「あ、ごめん。すぐ行くよ!」
勇太はひかるに向かって叫んだ後、俺の方へ向き直って「じゃあ、頑張ってね」と言って、駆けて行ってしまった。
「保本と付き合うなんて、勇太の奴も災難だよな」
いつのまにやら、同じクラスの大谷圭輔が隣にいた。
「確かに。――保本も、もう少し大人しければいいんだけどな」
勇太と保本ひかるは、何故か恋人同士だった。片やクラスでも一番冴えなくて、かなり天然の入った男。片や少しうるさいという欠点はあるものの、可愛さではクラス一の女。何を間違えたら付き合うなんていう結論に至るだろうか?
「全くだ」
俺に賛同して、大谷は大きく頷いた。
大谷は今回、文化祭の責任者をやっていることからもわかる通り、三年五組のリーダー的存在だ。しかしそのくせ威張った所もなく、人当たりもいいのでクラスでは人気者でもある。さらに、勉強もしないのに(と、本人は言う)テストでは良い点を取るので、一目置かれた存在でもある。ただ、一度これと決めた事は、相当の事がない限り絶対にやり通すという、良く言えば初志貫徹型、悪く言えば、融通のきかない面もあるのが、玉に瑕だ。ナルシストの気もある。
「そういえばさっき、金沢先輩見たぜ」
大谷は、突然話題を変えてきた。
「へ、へぇ。どこで?」
急に先輩の話題を出されたので、俺はどぎまぎしてしまった。
「えっと、校舎裏だったかな」
それを聞いて、俺はおやと思った。
「校舎裏?そんな所で何してたんだ?」
「さあな、人でも待ってたんじゃないの?」
「いや、お前がだよ」
俺が訊くと、大谷は急に顔を赤くして、
「え、いや、たまたまだよ…」
最後の方はほとんど聞き取れないくらい小さくなった。意外と、わかりやすい奴のようだ。
「たまたま、あんな所に行くか?」
俺は面白いので、大谷をからかう事にした。
「いや、仕事を頼まれてさ」
「校舎裏で?」
「う、裏の倉庫に、必要なものを取りに行ったんだよ」
「必要なものって?」
「それは、その、だから…」
「先輩が校舎裏に行くのを見て、ついていったんじゃないのか?」
大谷は風呂でのぼせた様に顔を真っ赤にして俯いた。そして、俺がとどめを刺そうと口を開くと――、
「こらぁっ!そこの二人!ミーティング始めるから早く教室にはいれ!」
びっくりして振りかえると、美術室の戸の前に、ひかるが立っていて、俺達のほうを睨んでいた。
「あ、ごめん」
大谷はこれ幸いという風に、ひかるに平謝りして教室へと入っていった。
舌打ちして、俺も教室に入った。
3
「それではこれより、第34回、T中文化祭を開祭します!」
司会が高らかに宣言すると、体育館中が沸き立った。
毎年そうらしいのだが、この中学は文化祭に対する意欲がとても高い。都内の中学の中で、一番行事に対する取り組みが良いとも言われている。
しかし、実際問題としてそうでない生徒もいるのであって、俺はどちらかと言うと後者の方だ。それは、開祭式担当学級の俺が、開催式真っ最中の今、何もしないで座っていることからもわかるだろう。しかしかといって、サボっているわけではない。ただ、仕事がないだけだ。ならば他の仕事を探して手伝えば良いじゃないかと言われると、全くもってその通りなのだが、それをしないで座っているのが、先程の後者たる所以なのだ。もちろん、頼まれれば手伝いぐらいするが。
「柳く〜ん、何をしているのかな〜?」
振り向くと、保本がポキポキと指を鳴らしていた。
「見ての通り休んでる」
「手伝おうとかは思わないのかな〜?」
とても口調が優しい。
「頼まれればするが…」
「へぇ〜、私に頭を下げろと言うのね?」
ヤバイ、一気に殺気が増えた…。
「…今は手伝いたい気分だから手伝うぞ」
「じゃあ、校長先生を捜してきて」
保本は急に、可愛い笑顔を作った。――役者になれるぞ、絶対。
「なんで校長を?」
「開祭式の中で校長先生に話してもらう場面があるんだけど、肝心の校長がどっか行っちゃったのよ」
「なるほど。――で、どれくらいで見つけてくれば良いんだ?」
「3分」
「結構辛いぞ…」
「じゃ、頑張ってね」
保本は俺のぼやきなど無視して行ってしまった。
「くそっ」
俺は立ち上がると、音を出来るだけ立てないように走り出した。
校長はなんとか3分以内にトイレにいるところを見つけ、一分前にはスタンバイすることが出来た。そして、校長が壇上に上がり、話が始まった。
「――しっかし、校長の話ってのはどうしてこうも長いんだ?」
俺はステージ横で不満をたれた。恐らく、この体育館内にいるほとんどの人が同じことを思っているだろう。意思の疎通が為されてなくたってわかる。
校長に依頼した演説(?)の時間は2分程度。しかし、校長の話は悠に5分を超えていた。2分ほどの原稿を書いてきたのならば、残り3分はアドリブだということだ。そう考えると、校長の頭はどうなっているのかが不思議に思えてくる。
「校長先生、ありがとうございました」
司会が、キリの良さそうな所で強引に止めた。その瞬間に、会場にほっとした空気が流れる。
校長はまだ話し足りない様で、渋々とステージを降りてきた。まだ話すつもりだったのかと呆れ、俺はある意味の尊敬の念を込めて、
「すごいですね」
と、言ってやった。すると校長は真に受け、
「いやいや、校長たるもの、こうでないとね」
と、満更でもない様だった。
校長ってのはお目出度い生き物だと、俺は思った。