故郷へ



コンクリートで固められた道の上に、私は降り立った。固く、冷徹な感触に、足はもう馴染んでいる。
すぐにドアが閉まり、私を乗せてきてくれたバスが、もう私の事など忘れたように、排ガスを残して去っていった。
不意に、過去と現在のタイムラグが、目眩の様に私を襲った。
三十年振りに訪れた街は、もう私の知っているものではなかった。




五十年前、私はこの町に住む農家の次男として生まれた。戦争が終わって7年が過ぎ、やっと人々に活気が戻り始めた頃だ。とは言え、貧しいことに変わりは無く、私は兄と一緒に近所の家の柿を取って食べたものだった。その時の柿の渋さは、今でもまだよく覚えている。
当時は当然、田舎町には舗装された道など無かった。よくて砂利を敷き詰めた程度のものだ。車やバス――と言っても、あまり沢山走ってはいなかった――の乗り心地は、とてもじゃないが良いとはいえなかった。私がこの町に長い別れを告げる頃に、ようやく隣町の駅前通が舗装されたといって、大騒ぎしていたのを覚えている。わざわざ舗装された道を見に、隣町まで行く人もいたほどだ。今では考えられないような話である。
一瞬、昔の土の道が懐かしく思えた。が、すぐに便利な方が良いと思い直してしまった。あの頃とは違うのだと、嫌でも実感させられてしまった。




取り敢えず、私は自分の生まれた家――今も両親が暮らしているはずの家へと、足を向けた。はずの、と言うのも、三十年前に家出をして東京に行って以来、一度も連絡を取っていないからだ。だから、2人の生死すら、私は知らない。なんとなく、生きているだろうという根拠の無い確信のようなものはあったが、それだけだった。
連絡を取らなかった理由は幾つかある。一つに、当時実家に電話が無かったこと。二つに、実家の住所を知らなかったこと。必要でなかったのだ。そして三つに――これが最も大きな要因なのだが――父が怖かったというのがある。我ながら情けない話だ。
私の父は、昔は何処の家にもいた頑固親父と言うやつで、私が東京に出ることを頑として許さなかった。当時の私には東京に出て成功するという夢があって、その為に何度も上京させてくれと頼んでいたのだ。しかし、父の答えはいつも同じ。「否」。その夢は、今まで苦労を掛けてきた両親の為であったのだが、そんな事を言うのは自分には照れ臭かった。そして、私は家出をした。
家出というのは、田舎町ではとても恥ずかしい事であった。自分の家の息子が逃げ出したなんて事が知れ渡れば、半村八分状態になることは必至だった。しかし、私はそんな事は考えず、親の為と思って逃げ出したのだ。後になってその事に気付き、私は家に帰れなくなっていた。父を恐れたのだ。あれだけ反対していた父だ。どれ程までに怒っているものか、私には想像もつかない。――だが、それももうない。あるのは、望郷の念だけだった。そして今、この街に立っている。




私が青春時代の大半を過ごした家は、古くこそなっていたものの、少しも変わっていなかった。それは、まだ両親が此処に居座っているという事の証だった。父は死んでもこの土地からは去らんと、事あるごとに言っていたし、築七十年にもなろうかという建物に住み続けるのは、よほどのアンティーク好きか、その家に愛着のある者だけだろう。
私は、表札を見た。
 『原延』
 「ハラノベ・・・・」
だいぶ前に捨てた名が、そこに書き込まれていた。今は高間と名乗っている。苗字と一緒に、過去も捨てようとしたのだが、結局、私はここにいる。なんとも笑える話だ。
私は、門をくぐった。




何だかんだと言いながらも、やはり私の中に微弱ながらも残っていた恐怖は、全く意味を成さなかった。私の予想は大当たりであり、大外れでもあったのだ。そして、父の言葉は、確かにその通りであった。
――父は、仏壇に居座っていた。私が見たことのない満面の笑みで。父は死んでも、この家から離れようとはしていないのだ。
しかし、私には実感が湧かなかった。父の遺影があまりにも幸せそうな笑顔だからだろうか?やはり、何十年も会っていなかったからか?とにかく、私には父の死が信じられなかった。信じたくなかったのではない。信じることが不可能だったのだ。――今すぐにでも、あの嗄れた声で怒鳴られるのではないか。いや、言葉よりも先に、手が飛んでくるのではないか――。しかし、どちらも有り得ない事だった。




母――三十年前に比べ、だいぶやつれている――が、半年前の事だと教えてくれた。そして、もっと早く帰ってくればと、哀しそうに言った。
 「ごめん・・・・・」
簡単な言葉しか浮かばなかった。
 「あんた、何で一度も連絡しなかったんだい?」
周りに多くの皺を携えた優しい瞳が、私を見ていた。父さんが怖かったんだ、と言うと、母は笑った。力は無いが、嬉しそうな笑顔で。
 「父さん、きっと喜んどるよ。わざと怖い人を演じとったからね」
わざと?私は思わず訊き返していた。
 「そう、わざとだよ」
母はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。
 「兄さんは工場(こうば)を継いだの?」
工場(こうば)とは、父がかつてやっていた金属加工専門の工場(こうじょう)のことだ。
 「父さんがそんなことすると思うかい?体調を崩して辞める時に、一番信用の出来る人にって、田辺さんに譲ったよ」
確かに、父は頑固ではあったが、古い人間ではなかった。世襲制というものを嫌っていたし、実力主義的な部分を多く持っていた。自分の息子だからと言って甘やかしたりは決してしなかったのだ。田辺さんは確か兄と同い年だったが、人をまとめる力に優れていた。だから、父は兄の修司ではなく、田辺さんを選んだんだろう。
 「でも、工場で働いてるんだろう?」
 「そりゃあね、何だかんだ言いながら、本当は修司に継いでもらいたかったのよ」
父親と言うのは、元来そういうものなのだろうか?五十を過ぎ、未だ独身である私には、到底分かり得ない事だ。
 「浩司も工場に?」
浩司と言うのは、私の弟のことだ。
 「浩司なら、市役所勤めだよ」
 「市役所か・・・・・。浩司は真面目な奴だったからな」
浩司は三人兄弟の仲で最も真面目で、父の言う事も良く聞いていた。市役所の仕事も、父の勧めがあって入ったのだろう。それも、自分の行きたい所を推してくれたのだろうから、浩司はとても喜んだはずだ。浩司と私とでは、父に対する考えは全く逆かもしれない。
 「――兄さんに会ってみるよ」
私は立ち上がって、父を見た。




工場は、家から十五分ぐらい歩いた所にある。だいぶ街の様子は変わっていたので、もしかしたら迷うかもしれないと思った、一度も迷うことなく着くことが出来た。意外と、幼い頃の記憶というのは忘れないものの様だ。
開け放してあるシャッターの中から、機械音が響いてくる。少し躊躇ったが、私はそれをくぐって中に入っていった。
工場の中では、何やら大型の機械が大きな音を立てながら動いていて、その周りを何人かの人が、操作盤をいじったりしながら歩き回っていた。その中の1人が、私に気付いた。
 「もしかして・・・・・裕ちゃんか?」
私と同じぐらいの歳に見えるその男性は、私の昔の呼び名で私を呼んだ。私は一瞬戸惑ったが、すぐにその顔とある名前が一致した。
 「真さん・・・・?」
すると、その男性は頬をほころばせた。
 「やぁ、覚えててくれたんか!もう・・・・三十年振りか。元気にしてたか?」
やはり真さんだった。この人は私より一つ年上で、近所に住んでいたので昔はよく遊んでもらっていた。浩司が生まれ、兄が浩司の面倒ばかり見ている時には、私の兄のようにしてくれた人だ。ずっと「真さん」と呼んでいたのでみょうじは忘れてしまったが、今まで、とても会いたかった人の一人だ。
 「真さんもこの工場で働いてたんですか」
 「あぁ、親父さんには世話になったからね。この工場は潰さないって約束もしたし」
真さんは、何か困ったことがあるとよく父に助言を貰ったりしていた。それと、真さんの父親が真さんが幼い頃に亡くなっていた為に、私の父を実の父親の様に慕い、親父さんと呼んでいた。彼の母親や姉や弟たちと、家族ぐるみの付き合いをしていたものだ。
 「真さん、兄さんいますか?」

積もる話はあったが、取り敢えず、兄を呼んでもらうことにした。真さんは話し足りない様子だったが、待ってな、と言って、奥のほうへ入っていった。
待つ間に、工場の中を見回してみた。建物自体は三十年前とほとんど変わっていないが、中の様子はだいぶ変わっていた。昔の機械は手動がほとんどだったし、コンピューターなんてものはまだ実用化されていなかったが、今では新しく大型の機械が入っていて、その全てがコンピューター制御の全自動になっていた。あの頃の、好きだった匂いも無く、私は少し寂しさを覚えた。




五分ほどして、奥から真さんともう一人の男が出てきた。私はその男を見て不思議な感覚に囚われた。その男は私の兄に間違いなかったのだが、逆に、私の知る兄の姿と変わりが無さ過ぎたのだ。老いたという印象は多少なりあるとしても、歳を重ねるごとに変わる雰囲気と言うか、オーラのようなものが、三十年前と全く変わっていなかったのだ。昔から老けていたとも言えるかもしれないが、それは恐らく、兄が昔から大人びた――と言うか、どこか悟った様な空気を漂わせていたからかも知れない。兄は私にとって最も身近で、一番尊敬できる人だった。――いや、今でもそうかもしれない。
 「裕司、久し振りだな」
兄はまるで、半年振りに合うかのような気軽さで、私に言った。
 「兄さん、全然変わってないみたいだね」
私も努めて気楽に言った。
 「いや、だいぶ老けたよ。――まぁ、それはお前も同じみたいだがな」
 「確かに」
そして、二人で笑いあった。三十年振りの兄の笑顔に、私はほっとした。
 「ここで立ち話もなんだろうから、中に入れよ」
真さんが私を中に促した。が、兄がそれを遮る。
 「いや、街中を歩きながら話そう。――まだあまり見て回ってないだろう?」
実際、その通りであった。それに、兄と二人だけで話したかったので、私はうんと頷いた。
 「そうか、じゃあ工場の方は俺に任せてくれ」
兄は頼むよと一言残し、私を促して外に出た。




――外に出ると、兄はさっきの言葉とは裏腹に、何も言わずに一人歩き出した。私は黙って後をついて行く事にした。
兄はどんどんと先を行った。途中何度か曲がると、私はようやく兄が何処へ行こうとしているか分かった。
工場を出て約十分後、視界が開けた。
 「ドンド川か・・・・・」
着いた場所は大きな川の土手だった。元はちゃんとした名前があるのだが、私のいた頃はドンド川として親しまれていた川だ。昔はいろんな川魚が漁れたが今では護岸工事され、恐らく鯉ぐらいしか居まいと思われるほど、川の水は綺麗とは言い兼ねた。
 「家にはもう行ったのか?」
やっと、兄が口を開いた。
 「あぁ」
 「じゃあ、親父のことは知ってるな?」
 「・・・・あぁ」
兄は口を閉じた。私も、そうする。兄の眼は川面を見ている。だから、私もそうした。
 「浩司には?」
 「会ってない」
 「それがいい。あいつは、お前のことを快く思ってない。親父の顔に泥を塗ったってな」
 「・・・・・・」
――川の様子は変わっても、川面を渡る風は、あまり変わっていない様だった。
兄が、私の目を見た。
 「裕司、お前は親父のことをどう思ってた?」
 「・・・・どうって?」
私には、兄の意図が図り兼ねた。
 「お前が思ってる通りに言えば良いんだ。死んでるからって気にしないで、悪口でも何でも言ってみろ」
何で?と、口から出そうになったが、兄の目を見て、それを止めた。
 「・・・・やっぱ、怖かったよ」
 「それだけか?」
兄は、私の瞳の中を覗き込んだ。
 「・・・・あとは、物分りの悪い親だと思った」
 「東京行きを許されなかったことか」
 「そうだよ」
 「そうか・・・・」
呟くように言うと、兄は俯いてしまった。しかし、すぐにそれが悲しんでの行為ではないことがわかった。兄は、笑っていたのだ、声を押し殺して。しかし、それも我慢が出来なかったようで、次第に大きくなり、ついには空を見上げて大きく口を開けて笑い出したのだ。私は只々、唖然とするばかりだった。そんな私の様子に気付いて、兄は笑うのを止めた。
 「悪い悪い、突然笑い出したりして」
兄は照れ笑いを浮かべて頭を掻いた。
 「実は、もう20年ぐらい前のことになるけど、親父から面白い話を聞いてな。――まぁ、お前には面白くないかもしれないが・・・・。聞きたいか?」
 「・・・・あ、あぁ」
私は一瞬迷ったが、聞かずに済ますほど好奇心は少なくなかった。
 「あれはお前がいなくなってから9年経った時だったから・・・・、今から21年前だな。その日は浩司が母さんを温泉旅行に連れて行っててな、俺と親父が二人だけで家に残ってたんだ」
兄は、遠い日を思い出すように、空を見上げた。




 「男二人だけだから、当然の如く酒を酌み交わしてたんだ。最初は雑談なんかしてたんだけど、そのうちに、親父が俺に向かってこう訊くんだ。『お前は俺のことをどう思ってる』ってな」
 「・・・・さっきの兄さんみたいに?」
 「そうだな、そんな感じだった。俺は最初、何を言ってるのかよくわからなくって、『どういうことだい?』って訊き返したんだ。けど、親父はそれには構わずにこう続けた。『裕司のやつは、きっと俺のことを怖がってるだろう。多分、この先二十年は帰ってこないと思う。それにきっと、俺のことを物分りの悪い親父だって思ってるだろうな。でも、それも当然だ。俺がわざとそう思わせるためにやってきたんだからな』って」
いまいち、よくわからない部分があった。
 「わざと?」
 「俺も、そうやって訊いた。親父はこう言ったよ。『そうだ。裕司は意思の弱いところがあるからな。いつでも帰ってこれる状況だったら、東京に出しても上手くいかないだろう。だから、家出っていう帰って来づらいようにしてやったんだ。案の定、あいつはまだ帰ってこない。それなりに頑張ってる証拠だ』ってな」
 「・・・・そんな・・・・」
私は絶句した。父の手から逃れたつもりが、本当は父の考えていたことだったなんて・・・。
私は、自然と笑いがこみ上げてきた。それと同時に、目の前が滲んで見えなくなっていった。頬を、冷たいものが流れていくのを感じた。
さっきまで、遠い存在だった「死」が、突然私に襲いかかってきた。


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