・1・
「まったく、何だよこんな時間に……」
ぶつぶつと文句を言いながら、急に鳴り出した(予告などしてくれるはずもないが)電話を睨みつける。
「今、何時だと思ってるんだ……?」
と、今度は時計へと目をやる。
AM9:00
「…………」
諦めて、受話器を取る。
「はい、松永です」
「おぉ、松永君か。わしだ、角倉だ」
聞き慣れた、しわがれた声が聞こえてくるが、まだ頭はボーっとしている。
「あぁ、え〜っと……、角沢さんでしたっけ?」
「今、角倉だと言っただろう……」
「あ、すいません。どうも朝は弱くって……」
「もう朝と言う時間でもないだろう。――突然だが、仕事だ」
「本当に突然ですね……」
「ある人の調査を頼みたいんだ」
俺のぼやきは無視された。
「何処かの会社の社長ですか?」
「いや、当たらずとも遠からずだな。――Nチェーンの専務だ」
「Nチェーン……。これまたでかい所ですね」
Nチェーンは、食品業界ではトップに位置する会社で、特に冷凍食品などが強い。
「使いこみの調査ですか?」
と、俺が訊くと、彼は笑って答えた。
「ははは、流石だな。そうだよ、Nチェーンの社長直々の依頼だ」
「……ってことは……」
「大丈夫だ、金額は申し分無い。手付金500に、成功すればさらにプラス1,000だ」
「1500万か……」
「どうだ、やるかね?」
もちろん彼は、俺の答えなど承知の上で訊いているのだ。
「お願いします」
「OK。では、30分後にいつもの場所で」
彼はそれだけ言って、電話を切ってしまった。
俺の名前は松永優一、私立探偵だ――といけば、それなりに格好いいのだが、俺は残念ながら探偵ではない。「何でも屋」というやつをやっている。
「何でも屋」を職業としている個人や団体は多いが、俺ほど徹底的に「なんでも」やるやつはいないだろう。炊事、洗濯、料理、買い物、ガキのお守り等という、日常的なことはもちろん、浮気調査や夜逃げの手伝いまでやる。さらに、大っぴらにはやってないが、スパイや暗殺等も扱っている。もっとも、好んでやりたいわけじゃない。
俺は今年で32歳。正しく働き盛りだ。しかし、働いても働いても、表向きの「何でも屋」では、やはりたかが知れている。そこで、裏の仕事も始めたわけだ。
さっき電話してきた男は、角倉剣蔵と言って、裏の世界ではかなりの大物で、ある事件で知り合ってからは、しばしば俺に仕事を持ってきてくれる。この人無しでは、俺は生きてゆけないだろう。
しかし、この人の素性については何も知らない。俺は訊こうとしないし、彼も言おうとしない。わかることは、結構な年はいっているであろうという事と、かなりの修羅場をくぐって来たのだろうという事だけだ。
今回彼が持ってくる仕事は、金になる割に楽な仕事だ。誰かの事を調べるなど、俺にとっては容易(たやす)いことである。亡命した国王のことを調べる仕事に比べれば、お茶の子さいさいだ。
だが、と、俺は思った。
そういう楽な仕事に、これだけの大金を払うだろうか?これは、何か裏がありそうだと、俺の今までの経験が言っていた。
・2・
「キャアッ!」
という悲鳴と共に、女の子が転んでいた。
「え……?」
気付くと、俺に向かっての冷たい視線がたくさん……。
どうやら、マズイ状況らしかった。
「だ、大丈夫か……?」
一応、訊いてみる。
「あぅ〜……」
と、女の子は涙目だった。
中学生ぐらいの女の子で、背中には重そうな鞄を背負っている。
この突然の事故、実際俺には悪いところはない。例の専務の尾行をしていて、歩いていただけなのだ。そこに女の子が走ってきて、この地方には珍しく雪が積もっていたため足を滑らせ、俺にぶつかったのだ。
それなのに、俺が白い目で見られている……。
「ご、ごめんな。じゃ、じゃあ、俺はこれで……」
と言うと、俺はそそくさと退散した。――まだ、背中に視線が突き刺さっているのがわかる。
専務――名前を、竹中と言う――の姿を探す。
「ヤバイな……」
何処にも見当たらない。
尾行ごときこなせないようでは、何でも屋の名折れだ。
十字路まで走り、左右を見る。が、竹中の姿はない。
「まずったな……」
頭をかきむしった。
人気もなく、薄暗い、住宅街の方へと入ってみる。
――有名な超の字のつく高級住宅街ともなると、都内であるのにも関わらず、何坪あるのかわからないような家ばかりだ。
その家々の間を、音も立てずに走る。
「――ハァ……ハァ……」
見失ってから、既に10分が過ぎようとしていた。
そろそろ諦めざるを得ないか、そう思って角を曲がった時だった。
「ん……?」
誰かが倒れている。
男が電信柱の下でうつ伏せになっている。街灯に照らされて、まるでスポットライトでも浴びている様だ。
酔っ払いかと思ったが、すぐにそれは間違いだと気付いた。
――背中の中央辺りに、ナイフが立っている。
血は赤黒く背中に広がり、近づいてみるまでもなく、もう生き絶えていることがわかった。
周りに争ったような形跡はない。後ろから一突きにされたといった所か。
近づいて、詳しく観察してみる。
「心臓を一突き、即死だな……」
いくら相手が後ろを向いていたとはいえ、一突きで殺すのはなかなか難しい。少なくとも、犯人は男だろう。
俺は男の顔を見てみた。
「竹中……!?」
俺は驚いた。その男は、俺がついさっきまで尾行していた竹中だったのだ。
「どういうことだよ……?」
全く、依頼といい、この事件といい、不可解なことが多すぎる。
――不意に、遠くからパトカーの音が聞こえてきた。
仕事上、見付かるのはまずい。
「早いな……」
そう呟いて、俺は夜の街に身を躍らせた。
・3・
電話が鳴っている。
最初は目覚ましかと思ったが、自分は目覚ましなど使わないことに気付いた。
寝ぼけ眼を擦って、部屋の片隅で雑誌に埋まっている電話から受話器を取る。
「はい……松永です……」
「おお、松永君か。昨日は大変だったな」
なんだか、声が遠い。
「角山さん、なんか声が遠いんですけど……」
「ん?いつもと同じ場所からかけているんだが……」
「あっ!」
「どうした?」
俺が突然声をあげたので、角倉は声を落として訊いた。
「いえ、何でもありません……」
と、誤魔化しながら、俺は逆さまに持っていた受話器を持ちなおした……。
「しかし、どういう事なんですか?竹中が殺されるなんて……」
「さぁな、私にも訳がわからん」
角倉も、お手上げといった感じだ。
――ピンポーン!
突然、玄関のベルが鳴った。
「あっ、すいません。誰か来たみたいなんで、これで。後でかけ直します」
「あぁ、わかった」
電話を切って、玄関へ向かった。
「どちらさんでしょう?」
どうにも染み付いてしまった様で、口調だけは軽い調子だが、警戒は緩めない。
「チワァ〜ッス。○×急便で〜っす」
足音を立てないようにドアの前まで行き、覗き穴から外の様子を伺う。
――全身黒ずくめの男が二人。
手にはサイレンサーを付けた拳銃。
明らかに、殺し屋だった。――ここまでもあの格好で来たのか?
今時の殺し屋はあんな格好はしていないぞ……。時代遅れだな。
まあ、どういうわけかは知らないが、俺を殺しに来たようだ。だが、裏の世界を伊達に歩いてきたわけではない。あんな時代遅れに、殺されてなるものか。第一、宅急便の振りをする事自体、時代遅れだよな……。
――躊躇(ためら)いなくドアを開けると、相手が撃つ体制に入る前に、懐に突っ込んでいく。
殺し屋の方は、まさかいきなり突進してくるとは思わなかったのか、一瞬怯(ひる)んだ。だが、その一瞬がこの世界では命取りだ。
俺はナイフを右手に持つと、まず右に立っていた奴の銃を持った右手首を、動脈が切れない程度に切りつける。そしてそいつが落とした拳銃を拾い上げ、二人に向ける――。
その間、約5秒。
俺とのレベルの差を知ってか、もう一人はすぐに両手を上げて降伏した。
俺は二人に、部屋の中に入るように無言で指示した。仕方なく入っていく二人を見届けてから、部屋の前の廊下を見る。
「……また、ここも出てかなきゃな」
廊下には殺し屋の一人の血が滴り、きっとすぐにもそれに気付いたここの住人が、警察を呼ぶだろう。俺が"ただの"何でも屋なら別に気にする事はないのだが、流石に裏の世界に足を片方浸している以上、警察のお世話は困る。事情聴取だけでも嫌だ。となれば、ここを出ていくしかない。今までも、何度かそうしてきた。
全く、どうしてくれるんだ!
・4・
――部屋に戻り、未熟な殺し屋に銃を突きつけて訊く。
「――お前ら、名前は何て言うんだ?」
「馬場だ」
一見して兄貴分といった感じの、のっぽがぶっきら棒に答える。
「おい、馬場よぅ。今の自分の状況分かってそんな態度してんのか?」
「フンッ」
と、馬場は先生に怒られている不良の中学生のような態度をとる。――もっとも、今時の中学生の方がもっと頭を使っているから怒られることのほうが少ないだろうが。
「まぁいい、そんな態度取れるのも今のうちだ」
と、俺はもう一人のほうを見た。
馬場とは変わってこちらは、さっきまでの自信に満ちた表情は何処へ行ったのか、怯えた目でこっちを見ている。拳銃を持っていないと安心できないタイプなのだろう。
「――お前は?」
「し、鹿野です」
俺はその名前を聞いて、思わず吹き出してしまった。
「”馬鹿”コンビじゃねぇか」
しかし、当の本人たちは俺が何故笑っているのか分かっていないようで、キョトンとしている。
「おい、何を笑ってやがるんだ?」
馬場が耐えかねて訊いてきた。
「まぁ、その内に分かるだろうよ」
と、俺は適当にあしらった。
「――んで、何で俺を殺そうとしたんだ?」
「頼まれたんだよ」
”馬”が俺から顔を背けるようにして答えた。
「誰に?」
「言える訳ねぇだろう!!」
俺はニヤリと不敵な笑み(自分で言うことではないと思うが)を見せ、
「もうすぐ、近所の奴が通報して警察が来ると思うが、ムショに入るのと、今この場で頭を吹っ飛ばされるの、どっちがいい?どっちでも、好きなほうを選んで良いぜ」
と’優しく’言ってやった。
”馬”は、驚いたような顔を見せたが、またすぐに「フンッ」と顔を背けた。
「Nチェーンの社長です!」
と、突然”鹿”が答えた。
「バカ野郎!!」
馬が怒鳴りつけるのを聞いて、俺はまた吹き出してしまった。
「俺はまだ死にたくありません!兄貴は勝手に死んでればいいでしょう!!」
と、鹿のほうも腹を決めたようで、ほぼ逆ギレ状態だ。
「喧嘩なら後でやってくれ」
俺は呆れて言うと、鹿に詰め寄った。
「俺を狙う理由は聞いたか?」
「そこまでは俺らは干渉しません」
「……まぁ、それもそうだな」
期待していたわけでもないが、少し落胆した。何しろ、雇い主に狙われていたのだから。
「――じゃあ、この銃は貰っていくぞ」
と、俺が立ち去ろうとすると、鹿が泣きそうな声で、
「お、俺らはどうすれば?失敗したことが分かれば、殺されちまいますよ」
殺そうとしていた相手に向かって、そんなことを訊くのも間違っているが、そもそも、こいつらには殺し屋など向いていなかったのだろう。
「警察に保護してもらえ」
そう言い残して、俺は簡単な荷物だけ持って窓から部屋を出た。
・5・
駅前のベンチに腰を下ろして、俺は一先ず息をついた。
「さて、どうするかな……」
まずは、寝場所の確保からか。元々こんな商売だ、ヤバイ事もやるので、決まった家を持たずに、あちこちを転々としている。いざと言う時のために、常に簡単な荷造りもしてある。さほど今日のようなことも珍しくはないのだ。寝場所はまた確保すれば良いし、前の寝場所から俺のことがわかるなんてことも、万に一つもない。それだけ、用心している。
だが、今回はちょっと状況が違った。依頼主に殺されかけたと言うことは、交渉は決裂、金は入らない。となれば、俺はくたびれ損になってしまう。それに、もう乗ってしまった船だ。少し、Nチェーンについて調べてみるとしよう。
「あ、こないだのおじさんだ」
立ち上がりかけたところで、不意に呼びかけられた。振り向いてみると、中学生ぐらいの女の子が一人立っていた。
「――僕に何か用?」
『おじさん』と言う言葉が気になったが、相手は子どもだ。笑顔で訊いた。
「あれ、覚えてない、私の事?」
女の子は、少しばかり不服だといった様子で俺に訊いてきた。
「そう言われても……あっ!」
思い出した!あの時ぶつかった女の子だ!
「思い出した?」
「あぁ、思い出せたよ。――それで、何の用だい?」
「ぶつかった時のことで、ちょっと気になったことがあって……」
「気になったこと?」
「うん……」
彼女は少しためらってから、口を開いて、
「実はあれ、頼まれてやったことなの」
「……え?」
唐突なことで、よく意味が理解できない。
「それはつまり……、頼まれたってことかい?」
などと、わけのわからないことを言ってしまった。
「お金をやるから、おじさんにぶつかってくれって言われて……」
と、少女は少し申し訳なさそうに言った。
「えっと、それは誰にだい?」
「ん〜、名前は言わなかったけど、サラリーマン風のおっさんだった」
「お、おっさん……」
俺は『おじさん』だっただけ、よしとしよう。
「――何か特徴とかは?」
「特徴って言っても、本当に普通の冴えないサラリーマンだったから……。あ、そうそう、左手の指が6本あったわ」
「6本?」
「そう。いわゆる、奇形って言われるやつ?私がそれを見て驚いたら、自分で言ってたわ。親もそうだったって」
「そんなのいつ気付いたんだい?」
俺が訊くと、少女は悪びれた風もなく、
「お金を渡された時よ」
と言った。しかし、彼女を責める意味もない。それに、俺の方が大人だ。大人気ないことも出来ない。
「そいつは結構珍しいな……。他には何か気付いたかい?」
と、お金のことには触れずに訊いた。
「あとは、特にこれと言って特徴のないおっさんだったわ」
もう話せることもないだろうと思い、俺は荷物を肩に担ぐと、
「そうか、ありがとう。とても参考になったよ」
と礼を言って、歩き出そうとした。すると女の子は、
「ちょっと待ってよ!」
と言って、俺の前に立ちはだかった。
「なんだい?」
「情報提供者に、お礼もなし?」
――来たか!と、俺は内心舌を打った。金をもらって、俺にぶつかりにきたような少女が、見返りを求めないはずもないと思い、早々に退散しようと思っていたのだが……。こんなことなら、もっと多めに金を持ってくるんだった!
「あのね、君。お礼といわれても――」
と、振り向きざまに言いかけて、少女に止められた。
「連絡先教えて」
「へ?」
――今、何て言ったんだ?
「れ・ん・ら・く・さ・き!――あるでしょ、電話ぐらい?」
無い、何て言ったら、怒り出すだろうか?
「それを聞いて、どうするんだい?」
「見返りはデート一回!――これでどう?こんな若い娘とデートなんて、そうそう出来ないわよ」
そう言われ、私は笑い出してしまった。長いこといろいろと取引をやっているが、こんな見返りを求められたのは初めてだ。
「な、何よ!」
と、少女は顔を真っ赤にした。
「ハハハ……いや、ごめんよ。初めてそんなこと言われたもんだから……。ククク……」
「もぅ……」
と、少女は完全に頬を膨らませ、むくれてしまった。
「ほら、コレ」
俺はポケットの財布から名刺を取り出すと、少女に渡した。と言っても、俺は名刺なんて持っていないから、角倉のオヤジさんの名刺だ。
「え、いいの?」
「今更、いいのも何もないだろう」
と、俺はまた少し笑って、「――ここに書いてある電話番号に掛けたら、俺の知り合いのオヤジさんが出るから、その人に『松永と連絡を取りたい』って言ってくれ。オヤジさんには、ちゃんと話しておくからさ。――あ、それから、電話は2,3日後にしてくれ。ちょっと面倒なことになってるから、それまでオヤジさんに話しておく暇が無いと思うから」
俺がそこまで言うと、少女は俺に不服そうな顔を向けた。
「おじさんとこの電話番号は教えてくれないの?」
俺はそれに、こう答えてやった。
「無いものをどうやって教えるんだい?」
と。
・6・
「ここか……」
俺は目的地について、目の前にそびえ立つビルを見上げた。さすがに、業界最王手だけあって、ビルもでかい。正面はガラス張りとなったそのビルは、遠くから見ると色の違う窓ガラスが模様のようになり、『N』の字を作り出す。側面には自社の巨大な広告ポスターが吊るしてあり、中の日当たりはあまりよくなさそうだった。
俺は視線を正面に戻した。
『Nチェーン本社』
大理石に彫られた文字を確認して、俺は中へと入って行った。中へ入ると真っ直ぐに、受付へと向かった。
「竹中専務にお会いしたいのですが……」
今日は潜入するためにやって来た。無用の警戒をされないために、いつもより柔らかい声で話しかけた。変装も、かなり普通のビジネスマン風にしてある。
「竹中でしたら、つい先日不慮の事故で……」
受付嬢は愛想笑いを少し哀しい表情にして答えた。
「あ、そうだったのですか。それは災難ですな……」
と、俺は残念そうな顔をして見せた。
「失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「おっと、失礼。私、Y物産の山寺と申します」
と、俺は抜かりなく作っておいた名刺を見せた。
「これは失礼いたしました。ただ今、代わりの者を呼びますので、少々お待ちください」
と言うと、受付嬢は電話を何処かに掛けだした。
「――間もなく参りますので、それまでそちらの椅子に掛けてお待ちください」
「どうも」
俺は軽く会釈すると、ロビーの待合椅子に腰掛けた。それから、中の様子をそれとなく探る。見たところはやはり大手の本社ビルといった所か。調度品などは見ただけでもそれと分かるほどに重厚な、そして高価な雰囲気をかもし出している。どこにも、今回の様な事件が起きたことを気配させるものはなかった。
「――お待たせいたしました」
不意に後ろから声を掛けられて振り向くと、そんなに暑くもないのに汗をかいている、頭がだいぶ禿げ上がった男が立っていた。
「副社長の秋場です」
男は名乗ると同時に、右手で名刺入れを取り出し、名刺を出してきた。おおかた、俺の作った名刺に「専務」と書いておいたのが効いたのだろう。Y物産はNチェーンの一番の得意先のはずだから、かなり上の人物が出てくるだろうと踏んでいたのだが、まさか副社長が出てこようとは、さすがに思わなかった。
「近々専務になりました、山寺と申します。以後、お見知りおきを」
「山寺さんですか……。――本日はどのようなご用件で?」
少しばかり信用していないのか、それとも、竹中のことを知っている人物だから、何らかの事実を知っているのではないかと警戒しているのだろうか?どちらにせよ、副社長と名乗った秋場という男は、俺のことを快い存在とは思っていないようだ。しかし、俺はそんなことに気付いているとはおくびにも出さずに、
「はい、実は竹中さんとは古い付き合いでしてね。僕が小さい頃、よくお世話になったのです。それで、新しい商談も兼ねて、久し振りに会いに来たわけなんです」
と、まるで無警戒な顔で言った。
「さようでしたか。しかし、ご存知の通り竹中はもういませんで……」
と、秋場は少し警戒を緩めた。
「そうですね……。――それでは、今日の所は出直すとして、また伺うことにしましょうか」
と、俺は少し困った顔をしてから言った。すると秋場は慌てて、
「せっかくいらっしゃったのですから、ゆっくりしてらしたら良いでしょう。新しい商談の話というのもあるでしょうし」
と、俺を止めようとした。恐らく、商談の手柄を自分のものにしてしまいたいのだろう。金にはかなりがめついタイプのようだ。
「いえ、そうもいかないでしょう。そちらだって準備もしてらっしゃらないでしょうし、私もまだ詳しい話しを出来る状態ではないのでね」
「いえいえ、こちらはいつでも大丈夫ですよ。しかし、山寺さんが無理なのでしたら、しょうがないですね。では、私の自宅の連絡先をお教えしましょう」
と、秋場はメモ用紙を取り出すと、左手でサッと電話番号をメモした。
「あ、そうしていただけるとありがたいですね。つてがあるのとないのとでは、だいぶ違いますからね。準備が出来次第、連絡させてもらいます」
と、俺はそれをありがたく受け取った。とりあえず、何か知りたいことがあれば聞きやすくなったわけだ。これは歓迎するべきことだろう。
「それはそうと、山寺さんは昼食はお済みですかな?」
突然、秋場が言った。
「いえ、まだですが……」
「それでしたら、うちの社員食堂を御利用なさると良いでしょう。安くて上手いと社員の間でも評判でしてね。普段は社員以外は利用できないのですが、食堂の方には伝えておきますので」
なんとも嬉しい気の回しようだ。会社内のことを知るにはその会社で働く、それも一番下を支えている人間に訊くのが一番良いのだ。
「そうですか、それはありがとうございます。では、そちらで頂きたいと思います」
俺はとても嬉しそうな顔を作り(実際、嬉しかったが)、頭を下げた。
「いえいえ、これぐらい、何のことはないですよ。――では、私は仕事がありますのでこれで」
と言うと、秋場はハンカチで汗を拭きながらエレベーターの方へと去っていった。
・7・
社員食堂は本社ビルの2階にあった。ちょうど昼時と言うこともあり、かなりの数の人が食堂の中を埋め尽くそうとしていた。この様子を見る限り、美味いという話は本当なのだろう。
俺がどうして良いのかと迷っていると、一人の女性が声を掛けてきた。
「あなたが山寺さんですね」
よく通る張りのある声だ。俺は少し警戒しながら、
「あなたは?」
と訊いた。
「私は野沢と申します。秋場副社長から山寺さんをおもてなしするようにと言い使って参りました」
さすがにこの手回しの早さには俺も驚いた。この短時間の間に女性を送ってきたこともそうだが、何よりその女性――野沢というこの女性の美しさは、俺も目を奪われそうになった。誰でも良いという訳ではなく、社内でも随一であろう女性を、この短時間で送ってくる手回しのよさには敬服してしまう。秋場という男は、だいぶ侮れないようだ。
「あぁ、秋場さんから。いや、これは参ったな。こんなにもきれいな女性をわざわざ寄越して頂けるなんて」
と、俺は、やられた、といった笑いを浮かべながらいった。
「まぁ、お上手ですわね」
と、野沢という女性も笑った。――接客技術も心得ているようだ。
俺は野沢という女性とランチを取ることになった。
Aランチなる定番メニューを取って手近な席に座ると、俺たちは食事を始めた。少しの間世間話をしてから、俺は切り出した。
「竹中専務のことはご存知で?」
彼女は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに、
「名前は知っていますが、あまり親しくはありませんでしたので・・・」
と答えた。
「そうですか……。――何故亡くなったかはご存知ですか?」
「秋場からは何もお聞きになっていないのですか?」
と、逆に訊いてきた。
「えぇ、何も。――なにかまずいことでもあるのですか?」
訊きかえすと、彼女は困ったように手を口元に当ててから、
「私が言ったということは誰にも言わないで下さいね」
と、俺に頼んだ。
「わかりました、そうしましょう」
「竹中専務は……殺されたんです」
「殺された……。いや、これはまた驚いたな……。しかし、何故です?」
「それは、まだ分かっていません。ただ、何か裏でやっていたのではないかというのが、社内でのもっぱらの噂です」
段々と接客であるということを忘れてきているようだ。どうやらこの女性、竹中のことをよく知っているらしい。
「しかし、竹中はそんなことの出来るような人間ではなかったと思いますが」
俺は知りもしない人間のことを、鎌をかけて訊いてみた。
「えぇ、そうなんです。彼は気の弱い人で――」
そこまで言いかけて、彼女は自分の言っていることに気がついた。
「――あら、私ってば何の話をしてるんでしょうね。すいません、お食事の席で……」
見れば皿の上も空になっている。俺は話を打ち切ることにして、配膳皿を持った。
皿を片付けて、食堂を出るところまで野沢という女性はついて来て、最後に別れの挨拶を述べた。
もうすっかり、接客のための美人に戻ってしまっていた。
――食堂を出て少し行くと、突然後ろから男が声を掛けてきた。と言っても、つけてけてきているのは気付いていたが。
「おい、ちょっとあんた」
俺はキョトンとした顔で振り向くと、その男に訊いた。
「はぁ、何かようですかな?」
男は真剣な表情で、
「あんた、野沢さんとどういう関係なんだ?」
と訊いてきた。俺はその瞬間に、笑ってしまった。
「おい、何がおかしい!」
と、男は少し怒っている。
「いや、すまんね。しかし安心してくれ。僕は彼女と会うのは今日が初めてだ。それも、やましいことが目的ではない」
俺は笑いをこらえながら言った。
「そんなこと、信用できねぇ」
と、男はまだ怒っている。
「なら、副社長に聞いてみるんだね」
と、俺は返してやった。
「あ、秋場さんに?」
「あぁ、今日は竹中専務に会いにきたんだが、君も知ってるだろうけど亡くなってしまわれたのでね。替わりに秋場副社長が僕に会ってくれたんだ。それで、食事は社員食堂でと言うので行ったら、彼女が僕の案内役になってくれてたってわけさ。――わかったかい?」
「し、失礼ですがどちらさまで・・・?」
彼は急に低姿勢になって訊いてきた。
「こういう者だよ」
と、俺が名刺を渡すと、彼は顔を蒼くして、
「失礼しました!」
と、頭を下げた。
「いや、別に構わないよ。僕も惚れそうになったからね、彼女には」
と、俺は優しく言ってやると、彼に提案した。
「どうだい、近くで話でも出来ないかな?」
・8・
昼もまだだと言うことなので、近くの軽食喫茶に入って彼はサンドイッチを注文した。
「しかし大丈夫かね。もうすぐ昼休みも終わってしまうだろう?」
俺は自分の仕事のためとはいえ彼に仕事をサボらせては悪いと思って訊いた。
「いえ、大丈夫ですよ。僕は営業の方なんで、外に出てて問題はありませんし。今日のノルマはあと二、三件回るだけですから、少しくらいなら時間は取れます。それに、山寺さんのお誘い……と言うのも変ですかね。とにかく、断ったりなんかしたら逆に課長に怒られちまいますよ」
まぁ、会社なんてそんなものかもしれない。俺はとりあえずうなずいた。
「――それで、お話と言うのは?」
「ちょっと訊きたいことがあってね。最近、ちょっと良くない噂を耳にしたものだから」
彼――滝野という青年だ――は、口に運びかけた手を止めて、
「良くない噂……といいますと?」
と、訊いてきた。
「竹中専務がなくなったことは、君も知っているだろう?」
「あ、はい。確か、殺されたとか……」
「そうだ、何者かに刃物で刺殺されている。その竹中専務が、君の会社、Nチェーンの金を横領していたらしいっていう噂なんだ。――君は聞いたことはあるかい?」
俺が訊くと、彼は驚いて、
「えっ、竹中さんがですか?――そんな話は聞いたことないですね」
と答えた。嘘をついている様子はないようだ。
「じゃあ、君は竹中専務のことは良く知っているかい?」
俺は質問を変えてみた。
「そうですね……、仕事上はあまり関わりはないんですけど、同郷だってことで個人的にはお付き合いは多い方でしたね」
「仕事のことで何か君に言ってなかったかい?」
俺が訊くと彼は笑って、
「なんか、警察か探偵みたいですね」
と言った。
「取引先のことは知っておかなければいけないからね。もちろん、このことで君を悪くもよくも言わないがね」
彼はなるほどと感心すると、
「そうですねぇ……、何か、上の連中と上手くいかないって言ってましたよ。上の連中っていうのは、多分役員会の連中のことだと思います」
「役員会と言うのはどれくらいの規模かな?」
「十人にも満たなかったと思いますけどね。重役と呼ばれる人たちの中でも選ばれた人しか役員会には出れませんでしたから。実質社長派の人間しかいないんじゃないですかね。副社長だけ会議の中では外れてるみたいですから」
「じゃあ、社長のワンマン経営に近いのかな?」
「簡単に言えば、そうですね」
彼はようやくサンドイッチを口に入れた。
「それじゃあ、副社長はきっと面白くないだろうね」
俺が訊くと、彼は首を振って、
「でも、副社長はもう次の社長の座を確保されてるって、社内のもっぱらの噂ですよ。――まぁ、根拠のない噂なんですけどね」
「噂なんてそんなものさ」
と、俺は笑った。
・9・
目が覚めると、俺は不快感を感じた。何かがいつもと違うことに、嫌悪感を示したのだ。しかし、その理由はすぐに知れた。
「そうか、引っ越したんだったか……」
引越しはもう何度目かわからないほどやっているが、しかしまだこの不快な感覚には慣れなかった。一時期2週間に一度くらいのペースで引っ越さなければならなかった時、ノイローゼになるのではないかと思ったこともある。それほど、俺は環境の変化に弱かった。
「それもこれも、あの『馬鹿コンビ』のせいだ……!」
俺はソファーベッドから起き上がると、愚痴をこぼした。角倉さんの話だとあの2人は住居不法侵入の罪で逮捕されたそうだ。そして、自分たちのしてきたことを洗いざらい吐いて、なんとか長く警察のお世話になろうとしているという。
俺は洗面所に行って冷たい水で顔を洗った。身震いしそうになるほどの冷たい水が、俺の意識をはっきりとしてくれる。気分が少しずつ良くなってくると同時に、俺は今後の行動について考え始めた。
こないだの本社ビルへの潜入では竹中の人柄が僅かだが窺えた。それから推し量る限りでは竹中は怨恨で殺されたということではなさそうだ。もちろん、良い人であるから恨まれるという事もあるから、一概には決められない。しかし取り敢えずは、会社内での仕事上のトラブルといった点で調べてみてまず間違いは無いだろう。となると、もう一度潜入してみる必要がありそうだな。しかし、下手に動けば俺がY物産の人間でないことがばれてしまう。後一回が限度って所だな。
「おし、まずは電話だな……」
利用できるものは最大限利用しよう。あの秋場とか言う副社長も、俺のことを利用しようとしているようだしな。俺の正体を知ったらさぞ悲しむだろうが、そこまでは俺も請け負えない。
「名刺は、っと……」
今の時間帯であれば、自宅に掛けるよりもNチェーンの本社に直接掛けた方が早いだろう。秋場から受け取った名刺を取り出して、そこに書いてある電話番号をダイヤルしかけて……俺は止めた。
「……外から掛けるか」
今は相手先に番号が知られるなんていう厄介なサービスを電話局がしている。ここの番号を知られるのはあまり得策ではないが、だからと言って番号非通知で掛けるのも怪しまれるだろう。ここは外から公衆電話を使って掛けるのが一番だ。
俺はコートを取ると、玄関へと向かった。
外に出て、一番手近な公衆電話に入った。
「――っと、×××‐××××‐××××か……。直通電話だな、こりゃあ」
直通電話の番号を教えるなんてのは、よっぽど相手のことを重要視してると言うことだろう。お陰でこっちとしてはとてもやりやすい。信用――はしていないだろうが、油断していてくれる内はこっちの思い通りに動かせるからな。
――トゥルルルル、トゥルルルル。
受話器からコール音が流れてくる。8回ほどコールした所で、ガチャっと音がした。
「はい、副社長室です」
出たのは女性だった。恐らく秘書だろう。何となく、息が上がっているような気がするが……気のせいか?
「秋場副社長にお通し願いたいのですが……。山寺と言えばわかると思います」
「山寺様ですね?少々お待ち下さい」
女性は保留のボタンを押したらしく、『エリーゼのために』が流れてきた。4,5分待つと、再び向こうの受話器が持ち上げられた。
「お待たせしてすいませんなぁ、山寺さん。ちょっと会議中でして……」
秋場も、さっきの秘書とおぼしき女性同様に、息を切らしていた。それも、歳のせいかかなり荒い。なるほど、想像はついた。
「昼間から秘書の方と二人きりで『会議』ですかな?」
一瞬、相手は驚いていたようだが、すぐに笑い出した。
「いや、山寺さんには敵いませんな。そんなことが分かってしまうとは」
「なに、簡単なことです。コールの回数や保留の時間が長かったのと、あなたも秘書の方も息を切らしていましたからね。――で、今は昼休みですか?」
「えぇ、もちろんです。一応仕事とプライベートは切り離しているつもりですのでね」
どうだか怪しい所だ。
「それなら結構。私は少々几帳面な性格でしてね。公私を混同なさってなければ――。仕事には口を出させてもらうこともあるでしょうが、プライベートは何も言いませんよ」
「いや、こりゃまたどうも……」
と、秋場は柄にもなく照れているようだ。
「それで、今日はどういったご用件で?」
「えぇ、ちょっとお聞きしたいことがありまして……。電話では言い辛いことなので、直接お会いできますかな?」
「えぇ、もちろんですとも。しかし今日はこのあと会議がありますので……16時頃でしたら空いておりますが、それでも?」
「結構です。では、16時にそちらに伺いますので」
「お待ちしております」
俺は、電話を切った。
・10・
俺はまたあの馬鹿でかいビルの前にいた。力を誇示するかのように――実際、そうなのであろうが――そこに立ちはだかるビルに、圧倒されそうになる。しかし、馬鹿でかいものというのは懐ががら空きになりやすい。そこを突けば、ネズミだって勝つことは可能だ。それが俺のように方法を知っている者なら、尚更のことだ。
ビルに入って、真っ直ぐに受付へと向かった。受付嬢はこの間と変わっていなかった。
「山寺様ですね。秋場が待っておりますので、あちらのエレベータより57階の方へお上がり下さい」
俺が声を掛けるまでもなく、受付嬢は接待業としては最高レベルの作り笑いで、俺に言った。やはり、秋場は抜け目ない男だ。
「あぁ、どうもありがとう」
俺もそれに劣らぬ笑顔で礼を言うと、エレベーターの方へと歩いていった。
57階に着くと、エレベーターの前には若くて、美しいというよりは可愛いという感じの女性が立っていた。
「山寺様ですね? 私、秋場の秘書の都波(つなみ)と申します」
彼女は俺の顔を一瞥すると、笑顔を見せて軽く礼をした。あまり硬過ぎない感じが好感を持てた。
彼女が恐らく電話を掛けた時に秋場と『一仕事』していた秘書だ。そう考えると、見た目とのギャップが感じられたが……恐らく、彼女の方には秋場に対する好意などはないのだろう。ただ、今の秘書という仕事を保ちたいがために、秋場の言うままになってるといった所か。少し、憐れにも思えた。
「こちらへどうぞ」
彼女が先を立って歩き出したので、俺はそれについて廊下を進んだ。
廊下は高級そうな絨毯が敷かれ、足音などはほとんど聞こえない。また、人もいないので、どこか違う国に紛れ込んでしまった様に感じた。しかし、それも高層階だけのことなのだろう。
「こちらでございます」
彼女はある木製のドアの前で立ち止まると、俺に向かって言った。それから、重そうなそのドアを開けると、俺を中へと促した。
中に入るとまずは秘書室らしく、膨大な書類の詰まれた机で彼女の他の2人の男の秘書が仕事に精を出していた。実質秘書の仕事をしているのはこのふたりの秘書だけで、俺を案内してくれた彼女は、ただの秋場の『趣味』なのだろう。
俺が入っていくと、仕事をしていた2人の秘書は俺のほうを向いて、「ようこそいらっしゃいました」と声を揃えた。
「私には構わず仕事をしてくれ」
俺は少し優越感に浸りながら、彼らに仕事をするように言った。地位の高い人間が腐っていく理由が、垣間見えた気がした。
女秘書はさらに奥へと行くと、この部屋の入り口よりもさらに重厚な扉の前で止まった。このドアならば、地震がこようとも歪んだりすることすらなさそうだった。
「中で秋場が待っております」
と言うと、彼女は自分の席へと戻っていった。
俺は戸を片手で押し開けると、中に入っていった。
「やぁ山寺さん、よくぞいらっしゃいました。ささ、こちらへ……」
と、秋場は俺が入ってきたのを見るなり、高級そうなソファーへ俺を座らせ、自分はその向かいの一回りほど小さい椅子に座った。
副社長室はいかにもといった感じで、絨毯は本物を見たことのない俺でも恐らくそうであろうと思えるカシミヤで、壁に掛けられた絵は何とかという有名な画家の精密模写で、執務用と思しき机は、確かヨーロッパの超高級家具だ。どれも数万、数十万では到底買えない様な物ばかりだった。まぁ、俺ならば裏の仕事を何回かこなすだけで買える物ではあるが……興味もないから買いはしない。
「それで、山寺さん。今日は何の御用で?」
「えぇ、亡くなった竹中さんのことを少し伺いたくて……」
「そうですか……私で分かることは答えましょう。それ以上のことは、彼の部下にでも聞いた方が良いかも知れませんな。今呼ばせましょう。――倉根君、ちょっと来てくれ」
と、秋場は机に近寄って机の上のボタンを押すと、そのそばのマイクに向かって言った。
すぐに男の秘書の一人が入ってきて、頭を下げた。
「竹中君の部下を一人見繕って連れてきてくれ。よろしく」
「かしこまりました」
秘書は私に一礼すると、部屋を出て行った。
「――では、私に何かあればどうぞ」
俺はまた秋場の仕事の速さに感嘆した。これならば、副社長になるのもそう難しくはなかっただろう。
「そうですな……竹中さんの仕事振りなどはどうでしたでしょうか? あの人は私に仕事のことは何も話してくれませんでしたので……」
「ふむ……」
と、秋場は一瞬考えるような仕草を見せ、「仕事はよくしていたように思います。ずば抜けて業績が良い、と言うわけでもありませんでしたが、悪くはなかったですね」
……当たり障りのないことだけを言っている。まったくもって、この狸には参ってしまう。
俺は内心苦笑しながら、
「そうですか、まぁ、そうでしょうなぁ。彼は昔から実直なやつでしたからね」
と返してやった。要するに『マジメにやってるうちはあんたみたいな副社長にはなれないだろうな』と言う皮肉だ。――まぁ、秋場が俺の意を解したかは不明だが。
・11・
――コン、コン。
数分後、扉がノックされた。
「失礼します」
入ってきたのは俺と同年代の綺麗な女性だった。最初に来たときの野沢という女性といい、こんなにも綺麗な女性と言うのは多いものだろうか? それならば、会社勤めという選択肢も悪くなかった。だがその女性は、野沢とはまた違ったタイプの美人で、少し『尖った』感じのする女性だった。
「おぉ、峯元君か。こちら、Y物産の山寺さんだ」
「初めまして、峯元清美です」
彼女はすでに秘書から話を聞いているのか、特に戸惑いもせずに俺に頭を下げた。
「どうも、山寺です」
握手を求めると、彼女は一瞬秋場の顔を見てからそれに応じた。とても柔らかな手ではあったが、身のこなしと微かに覗く手首から、十分に鍛えられていることが分かった。おそらく、何か変なことでもしようものなら、並の男は簡単に押さえつけられてしまうだろう。
「では、私は少し出なければいけないところがありますので、また後ほど。――峯元君、くれぐれも失礼のないようにね」
「かしこまりました」
そういい残すと、秋場は部屋を出て行ってしまった。部屋を出るとき、机の上のマイクのボタンをこっそり押すのを、俺は見逃さなかった。
「――では、山寺さん。何かお知りになりたいことがおありだと伺いましたが……?」
秋場が出て行くなり、峯元は俺に聞いた。
「あぁ、はい、そうでしたな。どうもあなたのようなお美しい人と話すのは苦手でして……」
これはあながち嘘でもなかった。だが、今はそんなことは関係ない。仕事中は仕事に専念することだ。
「まぁ、お上手ですね」
と、体面上は嬉しそうに彼女は答えた。
「まずは、あなたと竹中さんとの関係を伺いたいのですが、よろしいですか?」
「えぇ、もちろん。私は竹中の娘です」
「む、娘さん、ですか……」
こいつはまずいことになった。下手をすれば、俺が竹中の知り合いなどではないということがバレてしまう。ここは、慎重に話を進めなければ……。
「しかし、『峯元』と……ご結婚を?」
「いえ、峯元は母方の姓なんです。父と母は私が幼い頃に離婚しまして、私は母に引き取られたんです」
と、彼女は特になんでもないことを話すようにさらっと言った。
「そうでしたか、それは失礼を……」
「いえ、気にしておりませんので」
と彼女は微笑んだ。
「同じ会社に勤めたのは、偶然なのですか?」
俺は少し気になったことを訊いた。
「いえ、父が紹介してくれたんです。離婚してからも、私は父とよく会っていまして、就職先を捜していると父に話したときに、『それならうちに来れば良い』と言ってくれまして、口を利いてくれたんです」
「なるほど……では、仕事の話なども良くしたのですか?」
「そうですね、お互いに相談に乗ったりはよくしていました」
少し胡散臭いなと、俺は思った。どこか彼女の表情に、引っかかるものを感じたのだ。まぁ、大体が秋場が連れてきた女性だ。本当に竹中の娘かどうかも怪しい。――もっとも、俺に言えたことではないが。
「仲の良い親子だったんですね。私も娘が一人いるのですが、ちょうどお転婆盛りで、私になんか少しも構ってくれないんですよ」
と、俺はでまかせを言った。もう得るものはなさそうなので、あとは適当なことを言っておこうと思ったのだ。
「そうなんですか――」
彼女も竹中の話をしなくて済むことになり、少しほっとした表情を見せた。
その後、結局特に話を聞くことは出来ず、なんの収穫もなく俺はNチェーン本社を去ることになった。
――いや、収穫はあったか。帰り際の握手の時に、峯元清美から連絡先をメモした紙をこっそり渡されたのだ。どんなつもりで渡したのかは分からないが、あの場では話せなかったようなことも話してくれるかもしれない。盗み聞きされる心配のないようなところでなら。
しかし、長期戦になりそうだと、俺は思った。