一、 月並みな顔?
全く、なんてことを頼まれちまったんだ。いくらあいつが親友だからって、あんなこと、無理に決まってるのにってのに。
でも―、あいつのあんな顔見たら、断れないよなぁ・・・・・。元々、断るのが苦手なんだから・・・・。
やっぱり、この「NO」と言えない性格、直した方がいいな。これからもずっとあんな依頼をされたんじゃあ、溜まったもんじゃない。
「月を消してくれ」なんて、馬鹿げた注文は―。
『あいつ』こと、岳神徹也(たけがみ・てつや)から電話が掛かってきたのは、世間的には夏休み真っ最中の、八月初めのことだった。
「よぅ、一朗(かずあき)。元気にしてたか?」
一朗というのは、俺の名前だ。フルネームは西田一朗。昔から一度も、初対面の人に正しく名前を呼んでもらった経験はない。いっそあの有名な野球選手と同じ『イチロー』と名前を変えてしまいたくらいだ。
―まぁ、そんなことはどうでも良いことか。
「徹也か?こんな暑苦しい時に何の用だ?」
別に、徹也が悪いわけではないのだが、文句を言いたくなるぐらいに暑い。
「いやぁ、ちょっと一朗に相談したいことがあるんだ」
「相談したいこと?」
「あぁ、実は、その・・・・・」
と言うと、徹也は急に声を低くした。
「何だ?よく聞こえないぞ」
「・・・・・のことだよ」
「聞こえないって」
「と、とにかく、駅前のPって喫茶店に30分後に来てくれよ。そこで話すからさ。じゃあな!」
「じゃあなって、おい、ちょっと・・・!」
―ツー、ツー、ツー・・・・・。
切れてしまった。
いつも、あいつの電話はこんな感じなので怒りもしなかったが、それにしても唐突すぎる。こんなにも唐突な時のあいつの相談は決まっていた。あのことだ。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
喫茶店Pに入ると、早速バイトらしきウェイトレスがやってきた。
「いや、待ち合わせをしているんだけど・・・・・」
と、俺は喫茶店の中を見回す。「―まだ来てないみたいだな」
「では、おタバコはお吸いになりますか?」
マニュアル通りの、抑揚のない言い方だったが、俺にはその方が気楽で良かった。
吸わないよ、と言って、案内された禁煙席に座ると、コーヒーを注文した。そして、コーヒーが来るまでの間、窓際だったので、窓の外を何気なく見ていた。
喫茶店の中は冷房のお陰で涼しいが、外はまるで地獄のように暑い。陽炎のせいで、道行く人の顔もはっきりと見えないほどだ。さらに窓ガラス越しでさえ、蝉の声がうるさく響いてきている。東京都内の駅前なのに蝉の声がうるさいあたり、この辺も田舎だなと思えてしまう。―さすがに、田や畑は見当たらないが。
二、三分ほど外を見ていると、通りの向こうに見慣れた顔―いや、見慣れた光景を作っている男が見えた。顔は見えないが、その周囲の様子を見れば、それが誰であるのかは一目瞭然だった。
その男の周りだけ、人口密度が以上に低かった。むしろ、その男一人しかいない。周りの人は皆、近寄りたくないといった様子で、その男にチラチラと視線を送っている。子供に至っては、泣き出す始末だ。
信号が青に変わり、男が歩き出す。反対側から歩いてきた人たちも脇へ避けていくので、男は決して少なくない人の波の間を、さしたる苦労もなく歩いていた。そして、喫茶店Pの前に立ち、ドアを開ける。
男が入ってきた瞬間、店の中がしんと静まりかえった。まるで、暴走族か暴力団か、警察でも(?)怒鳴り込んで来たかのように―ある意味で、それに近かったかも知れないが―店の中にいた誰もが男を固唾をのんで見守っていた。
男はそんな周囲の様子など気にもせずに、店の中を見回した。そして、俺と目があった。
「悪いな一朗。遅れちまった」
男―徹也は唇の端を上げるようにして笑いかけてきた。その顔を見てしまったのか、外を歩いていた男の子が泣き出す。周囲ではヒソヒソと何か―あまり良いことではないだろう―を話しているのがわかる。
徹也はやはりそんな周りに気づくことなく、俺の向かいに座った。
―徹也の顔は、はっきり言って怖い。いや、恐ろしいと言った方が的確かも知れない。その顔は、まだ23歳のフレッシュマン(死語か?)には到底見えない。その『顔』だけでどこかの“組合”からお誘いが来たほどだ。その顔に、190pという長身、バスケで鍛えた体格ときたら、恐くないと言う方が難しい。正直、中学時代からの友達でなければ、俺も恐い。―そんなこと、口にしようものなら殺されるだろうけど。実際、やつは強いし。
「あ、イヨちゃん。俺にもコーヒー」
俺の注文したコーヒーを持ってきてくれた女の子―さっきのアルバイトとは違う娘―に向かって、徹也は親しげに声をかけた。
「ハーイ」
と、【イヨちゃん】と呼ばれた女の子が答えた。―どうやら、徹也はここの常連らしい。
「―さて、相談ってのは何だ?」
もう長い付き合いなので、徹也から話し掛けてはこないだろうとわかっていた俺は、一口コーヒーをすすって訊いた。
「あ、あぁ、そのことなんだがな・・・・・」
いきなり本題に入られたからか、徹也は目に見えてうろたえた。
「あの、その・・・・・い、良い天気だよな」
「話を逸らすな」
外を指さそうとした徹也に、厳しい口調で言う。
「そ、逸らしてなんかいねぇよ」
憮然とした態度で言うが、説得力はない。
「じゃあ、早く話せよ」
こういう時は、せっつくに限る。と言うか、せっつかないと二時間でも三時間でも無駄話をして徹也はやり過ごそうとする。例え、自分で呼び出したとしてもだ。
「実は、だな・・・・。その・・・・」
徹也はまだ渋っている。
「だから・・・・あの・・・・」
「・・・・・・・」
「その・・・・つまり・・・・・・」
「・・・・・・・」
「いや・・・・えと・・・・」
「・・・・・・・」
だめだ、黙殺作戦も効果がないようだ。このままじゃあ、日が暮れてしまう。
「ハイ、コーヒーお待ちどうさま!」
「コーヒーを消してくれ!」
コーヒーが運ばれてきた所で、徹也が意を決したように言った。が、何かおかしい。
「・・・・・コーヒーを消す?」
「あ、いや、違う、間違えた・・・」
と、徹也はとても慌てていた。
コーヒーを運んできた【イヨちゃん】が、笑いを噛み殺しながらカウンターの中へと戻っていった。
「コーヒーじゃなくて、月を消して欲しいんだ」
「月?・・・月って、あの、夜になると空に浮かぶあれか?」
「そう、その月」
「・・・・・帰る」
こんなにまじめくさった顔で、冗談を言う奴だとは思わなかった。
俺は自分のコーヒー代を出すべく、財布を取りだした。それを、徹也は慌てて止めてくる。
「おい、待てよ。冗談とかじゃないって」
「それはそれでなお悪い!」
徹也は俺の前に立ちはだかると、手を合わせて頭を下げた。
「な、頼むから、最後まで聞いてくれよ!」
こうまでされると、俺も弱い。つい、ろくに考えもせず、
「わかった、話を聞こう」
などと、答えてしまっていた。
「―で、何でまた月を消すなんて話しになるんだ?」
もう一度席に着いてから、訊いた。
「それは、裕子のことで・・・・・」
裕子とは、この春徹也と結婚した女性のことだ。どこだかのお嬢様だそうで、おっとりしていて、とても美人だ。彼女ぐらいの美人なら、違う男を捜すのだって簡単なはずなのに(現に、俺も惚れた内の一人だ)、なぜ徹也と結婚することにしたのか、彼女の親友でもわからないらしい。徹也とは大学で知り合い、そのまま親しくなって大学を出て結婚という、お決まりともいえるコースをたどってきた。
「裕子さんのことって?」
俺の彼女とかいうわけではないが、裕子さんのこととなるとかなり真剣になってしまう。我ながら、恥ずかしいことだ。
「いや、その、裕子がな、最近よく月を見ているんだよ」
「・・・・?いいじゃねえか、別に」
「良くねぇよ!」
と、徹也は突然怒鳴った。
「あ・・・・すいません」
徹也は店内のお客さんたちに謝ると、俺の方に向き直った。
「話し掛けてもぼーっと月ばっかり見て、生返事しかしてくれないんだよ。月が見えなくなっても、名残惜しそうに星空をずっと眺めてるし・・・・・」
それを聞いて、俺はにやっと笑った。
「何だお前。月相手に妬いてるのか?」
「ば、ばか。そんなんじゃねぇよ」
「なら同様すんなよ」
と、俺は笑ってやった。
「と、とにかく」
と、徹也は一つ咳払いをした。「―何とかして、月を消してくれ。方法は問わない。金が必要なら幾らでも―いや、出せるだけだす。何なら、核ミサイルを使ったっていいから」
俺は、苦笑するしかなかった。
「核ミサイルなんて使える訳ねぇだろう。大体、何で俺なんかに頼んできたんだ?」
実際、徹也の友達には武器関係に強い「組」の人も多い。核は無理でも、ロケットランチャーぐらいはきっと手に入れてくるだろう。
「だってよ、今の時代、やっぱ力より頭だろ?」
「核ミサイルはどうしたんだ?」
「いや、それはそれとして・・・・・。俺の知り合いで、一番頭が良いのはお前なんだ。それにお前、新進気鋭の推理作家だろう?」
・・・確かに、俺は一応推理小説家として生計を立てている。が、「新進気鋭の」というのは、少々語弊があるだろう。賞なんてものは取ったことがないし、契約を取るのも一苦労というぐらいだ。
「推理作家は、普通月を消せないと思うが・・・・?」
「いや、何も完全に消してくれと言ってる訳じゃない。一日で良いんだ。一日で良いから、月を消してくれないか?」
「んなこと言っても・・・・」
と、俺が渋ると、徹也はバン!とテーブルに手を付くと(店内の視線が一気に集中した)、
「頼む!この通りだっ!」
と頭をテーブルに打ち付けんばかりに下げた。
このままでは、そのうちに土下座でもしかねない勢いだったので、俺は仕方なく、
「わかった、わかった。わかったから顔を上げてくれ!」
と、言わざるを得なかった。そう、本当は言いたくなんかなかったんだ!
―その後の、徹也の動きは素早かった。顔がパッ!と輝いたかと思うと、
「そうか、さすがは心の友だ!よろしく頼むぞ、じゃあな!」
と、颯爽と走り去っていった。
「心の友って・・・・」
この変わり様には、俺も呆気に取られてしまった。だが、ボーっとしてもいられない。さっきから、周囲の視線がずっと俺に突き刺さっている。大方、『消す』とか、『方法は問わない』とかいう言葉を、間違ってとらえているのだろう。
俺は、その場の空気から立ち去るべく立ち上がった。そして、伝票を取って歩き出そうとして、気づいた。
「あいつ、コーヒー代払わないで行きやがった・・・・・」
・・・とまぁ、こんなわけで(説明、長すぎたか・・・?)、俺は今、深夜二時を過ぎたにもかかわらず頭を悩ませていた。
いつもならば締め切りに追われて悩んでいる所だが、今回は違う。締め切りと難題の両方に頭を悩ませているのだ。だが、同時に違うことを考えられるほど俺の頭は器用ではない。そこで、先にやるべき―命に関わる仕事から、やることにした。―実際、徹也は時々とんでもないことをするからな。
「―ハァ・・・・・」
『わかった』とは言ったものの、はっきり言って当てがあるわけでもなければ、少しのアイデアもない。ただわかっていることは、物理的に消すのは不可能だってことだけだ。では、どうするのか?その先を考え始めて、もう5時間は経った。しかし、考えつかない時と言うのは何時間かけてもダメなものだ。時に、その逆があるように。
ドサッ!と、俺はベッドの上に倒れ込んで仰向けになる。気が付けば、BGMとして流していたCDも、いつの間にか止まっていた。俺はもう一度再生する気にもなれず、寝返りを打った。
―ふと、一枚のメモに目がいった。床に放り投げられたそのメモは、まるで見付けてくれと言わんばかりに、ベッドから一番よく見える場所にあった。
メモに何が書いてあるのかは、ベッドからは見えなかったが、その時俺はなぜかそのメモが大事であるような気がした。そして、ベッドから這い降りて、右手を伸ばした―。
二、月を消すには
避暑地とは、よく言ったものだ。
太陽は東京で見るそれと一緒なのに、この涼しい大気の中では快い。空も、雲の色が映える澄んだ碧(あお)で、周囲に広がる緑とのコントラストが美しかった。聞こえてくる蝉の声も、東京にはいない種類らしく、耳を楽しませてくれた。
「いや〜、良い所だなぁ」
と、徹也が一言で簡潔に言い表した。俺はそれに苦笑して、
「もっと他に言うことはないのかよ」
と言った。
「でも、本当に良いものは、褒める言葉も見つからないものだと思いますよ」
と、俺と徹也の後ろからフォローしてきた女性が、徹也の妻となった裕子さんだった。
裕子さんは白いワンピースに麦わら帽子を被り、清楚で可憐なイメージが、そのまま歩いているようだった。親友の妻とはいえ、目が奪われるくらいに綺麗だ。この人に会うたびに、俺は親友に羨ましさを超えて妬ましさをも感じていた。
それに対して親友の格好と言ったら、一緒に歩きたいとはお世辞にも言いかねる服装だった。
白いスーツの上下に革靴、中には派手なシャツとネクタイで、それこそヤクザと見間違わんばかりの―と言うか、ほぼヤクザそのものの格好をしているのだ。
「まぁ、とにかく早くホテルまで行こう」
一刻も早く周囲の人々の視線から逃れたくて、俺は二人を促した。
「―確かこの辺に、迎えの車が来ているはずなんだけど・・・・・」
俺は、駅前の通りを見渡した。すると、
「あ、あれじゃないですか?」
と、裕子さんが左前方を指差した。
そちらを見ると、確かに誰かがこちらに向かって手を振っている。近づくにつれ、はっきりと顔が見えてきた。
「やぁ、叔父さん、久しぶり」
白いワゴンの前で手を振っていたのは、俺の母さんの弟に当たる人―俺の叔父さんの喙朶悠三(くちだ・ゆうぞう)だ。歳は今年で四十三。少し髪が後退し始めているが、中年太りなどしていなく、スマートな外見だ。顔は人懐っこい感じで、ちょっと生やした鼻の下の髭が、何となくおかしい。その叔父さんが、今度ホテルを始めるというので、開業前だったが泊めて貰えることになったのだ。
「紹介するよ。俺の親友の徹也と、その奥さんの裕子さんだ」
俺は叔父さんに二人を紹介した。
「渋い兄ちゃんに綺麗な姉ちゃんとは、一朗も凄い友達を持ってるじゃないか」
流石に、これからサービス業をやろうとしている人間は違う。裕子さんは事実だとしても、徹也を渋いとはとっさに言えるもんじゃないぞ。
「俺は一朗の叔父の、喙朶ってんだ」
と言うと、叔父さんは二人に名刺を差し出した。
「あら、これで『くちだ』って読むんですか。珍しい名字ですね」
裕子さんが言うと、叔父さんは笑って、
「何でも、先祖が中国だかの人らしくってな、本当は違う読みなんだが、無理矢理『くちだ』って読ませてるんだ。一応、それぞれの漢字に本当にある読みを使ってる。今まで一度も、正しく読まれた試しは無いがな」
叔父さんはまた笑うと、俺たちに白いワゴンに乗り込むように言った。
「荷物はどこか適当に置いといてくれ。それと、シートベルトは忘れるなよ。―じゃあ、行くぞ」
叔父さんがアクセルを踏み込むと、車は少し重そうに走り出した。
車は駅前を出てすぐに、林の中の道に入り、正味一時間ほどで叔父さんのホテルに着いた。
「あぁ〜、涼しい。やっぱ木に囲まれてると気持ちが良いや」
俺はワゴンを降りると、うん、と伸びをした。
「本当ですね」
と、裕子さんの顔も明るい。が、あと一人は違った。
「うぅ・・・・・死ぬ・・・・・・・・」
完璧な、車酔いだった。
確かに、一時間も曲がりくねった道を通っては来たが、箱根の山越えほどではなかった。現に、運転手の叔父さんはもちろん、俺も裕子さんも、全然平気だ。徹也が車に弱いことは知っていたが、まさかこれほどまでとは思わなかった。だから、車に乗るとわかってから一言も何も発しなかったのか。
「大丈夫か、兄ちゃん?」
叔父さんが心配そうに声をかけたが、全然大丈夫ではなさそうだ。
「とにかく・・・、休ませて下さい・・・・・・・」
「あ、あぁ、わかった。こっちに来い」
と、叔父さんは徹也を連れて駐車場からホテルの中へと入っていった。
「・・・・・で、これを俺が運ぶわけね」
俺は徹也が残していった荷物を見てため息をついた。
「すみません、私たちの分まで・・・・」
「いえ、いいんですよ。最近運動不足なんで」
と、軽く笑って答えると、持てる力を振り絞って、自分の分と岳神夫妻の分の荷物を持ち上げた。―本当に運動不足だと言うことが、よくわかった。
叔父さんのホテルは、ちょっと変わった造りだった。外見は円筒形で、ベランダ部分が出っ張っていてパッと見はでこぼこだが、それがなぜか周りの林の中に溶け込んでいた。
中は入った正面に石でできたカウンターがあり、左手にはソファーなどが置いてある。入り口すぐ右にはエレベーターがあり、その左に食堂があった。上を見上げると吹き抜けで、各階に回廊があるという造りだった。
部屋は二階〜五階(四階はない)の東西南北に一部屋ずつあり、計十二部屋ある。それぞれの部屋は全て同じ内装、間取りになっているそうだ。その内の、二階の西と南の部屋に俺達は泊まることになった。
俺と裕子さんはそれぞれの部屋―俺が泊まるのは南の部屋で、あの二人は西の部屋だ―に荷物を置くと、徹也が休んでいる一階のロビーへと降りていった。
「―少しは良くなったか?」
俺はソファーの上で横になっている徹也に、近付いて声をかけた。
「少しはな・・・・・」
まだ虚ろな目を向けて、徹也は答えた。
「まぁ、一時間もすれば治るだろう。その頃にはちょうど、夕食の時間だ」
「一時間後・・・・、じゃあ、六時ということですね?」
裕子さんが俺に問いかけてきた。
「えぇ、そう頼んでおきました」
俺がそう答えると、裕子さんは徹也を見やって、
「それまで、この人の側にいてあげますね」
「それが良いでしょう」
と、俺ももう一度徹也を見ていった。
「―じゃあ、俺は叔父さんと話しでもしてきます。何かあったら、フロントに来てください」
そう言い残して、俺はフロントへと向かった。
食事の後、俺と徹也と裕子さんの三人で、俺の部屋で酒を酌み交わすことにした。そして、これからが『計画』の始まりでもあった。
この計画は、徹也には何も知らせていない。その理由は簡単だ。徹也が異常なまでに、隠し事が下手だからだ。・・・・・ただ、徹也にはまだ問題がある。徹也の奴が、月が消えたことに驚いて変なことを言い出すかも知れないということだ。どちらにせよ、この計画の鍵は徹也が握っていて、難しい計画だということには変わりない。俺は改めて、引き受けてしまったことを後悔した。
「―じゃあ、乾杯といこうぜ」
徹也がビール瓶を持ち上げた。どうやら、そのまま飲むつもりでいるらしい。
「何に乾杯するんだ?」
俺が訊くと、徹也は少し考えてから、
「一朗の成功を祈って、ってのはどうだ?」
と言った。俺はそれを聞いて、苦笑するしかなかった。
「普通は『祈って』じゃなくて『祝って』だろう」
「まだ成功してないだろうが」
「確かにそうだけどな」
そう言ってまた苦笑すると、俺はビールを満たしたジョッキを手に取り、
「俺の成功と、徹也と裕子さんの幸せを祈って、乾杯!」
「「乾杯!」」
高らかにそう言うと、それぞれがビールを顔の高さまで持ち上げ、一気に飲み干した。もちろん、徹也はビール瓶を、だ。
「っはぁ〜、やっぱビールは旨い!」
ビール瓶一本をわずか二十秒足らずで飲み干して、徹也は嬉しそうに言った。
俺は開け放してあったカーテンを閉めようと思い、窓へ近付いた。そして、声を上げる。
「おっ、今夜は月がよく見えるぞ」
「あら、本当ですか?」
と、真っ先に反応したのは裕子さんだった。
「えぇ、ほら、あそこに」
窓の外を指しながら、俺は内心ビクビクしていた。二人の内のどちらかが、月見酒でも飲もうなんて言い出したら、この計画はパーになってしまうからだ。だが、その心配も無用のものだった。
「一朗、そろそろカーテンを閉めた方が良いんじゃないか?」
「えっ?―あ、あぁ、そうだな」
俺は一瞬、徹也が計画に気づいているのかと焦ったが、すぐに承知した。要するに徹也は、月に嫉妬しただけなのだ。
「それよりも、一朗は最近どうなんだ?」
カーテンを閉めたのを見計らって、徹也は話を変えてきた。
「どうって?」
「恋人とか、結婚とか、そういう話しはないのかって訊いてるんだ」
昔はこんなことに興味など無かった徹也が、こんなことを訊くようになるのだから、結婚というものは、やはり人生の転機とかなのかも知れない。
「お前は俺の母親かってんだ」
と、俺は愚痴った。
「でも本当に、いい人を見付けた方が良いですよ」
と、裕子さんまで俺のことを心配してくれた。―全く、良い夫婦だよ!
「いい人なら目の前にいるけど、こぶつきなんであきらめたんですよ」
なんて言ったら、徹也に殺されるだろうな。
「そういう色恋話には、縁がないんでね」
と、俺は拗ねたように言ってやった。それから、もう話のネタにはされまいと、叔父さんに内線を入れた。
「あ、叔父さん?俺だけど。―あぁ、つまみをもう少し持ってきてくれよ。大食いが一人いるからさ。―そうだね、ビールも追加で。―じゃあ、頼んだよ」
チン、と、受話器を置いた。
「おい、一朗。ちゃんとビール十本追加って言っといたか?」
「十本って・・・・・多すぎるだろう」
「そんなこと無いって。お前も俺と同じだけ飲めばいいんだから」
「悪いが、それは無理だな」
徹也はかなりの酒豪として知られている。ちょっとやそっとの酒じゃあ、まず倒れない。そんなやつと、我慢比べなんか出来る筈がない。
「―何か、聞こえませんか?」
不意に、裕子さんが言った。
「聞こえるって、何がです?」
「何か、『ウィーン、ウィーン』っていう音が・・・・・」
「気のせいじゃないか?」
と、徹也が耳を澄ましてから言った。
「いえ、そんなことはないです」
「クーラーの音ですよ、きっと」
と、俺は結論づけて、二人にさらに酒を勧めた。そして、それから二十分後、流石に一気に酒を勧めすぎたせいか、徹也が酒に呑まれて倒れてしまった。それから約三十分間は、徹也が起きあがれないので俺と裕子さんで徹也の昔話などをして盛り上がった。特に、徹也の中学時代の話しは、裕子さんは聞いたことがなかったらしく、終始笑顔だった。
―徹也が回復して、叔父さんに内線を入れようと立ち上がった時、丁度電話が鳴った。
「俺が出るよ」
俺は電話に歩み寄り、受話器を取った。
「おぅ、一朗か?もう酒はいらねーのか?」
「あぁ、もう良いよ。ありがとう」
「そうか、わかった」
それだけの言葉を交わすと、俺は受話器を置いた。
それから、俺は夜風にでも当たろうと窓を開けた。
夜ともなると、涼しさを通り越して寒ささえ感じる、この地の風を頬に受け、俺は外に目をやった。
「あれ・・・・・」
あることに気付き、俺は声を上げる。
「ん、どうした?」
もう酔いが完全に醒めてしまっていた(!)徹也が、俺の様子に気づいて声をかけてきた。
「月が・・・・・」
「月が、どうしたんですか?」
裕子さんも訊いてきた。
「月が・・・・無いんだ」
恐れおののくような声を出してみたが、自分でも下手だとわかる。どうやら、俺は役者にはなれないようだ。
「無いなんて、そんなバカな話しがあるわけ無いだろう」
と、徹也も窓際に来た。
「―やべぇ、本当にねぇ・・・・・」
「本当ですね・・・・・」
普段は滅多なことでは驚かない裕子さんも、今回ばかりは驚いているようだ。
「・・・・沈んじゃっただけじゃないのか?」
「・・・・沈むにはまだ早い時間だぜ」
「・・・・じゃあ、いったいどこに行ったんでしょう?」
裕子さんの言葉の後、三人同時に、
「う〜ん」
と、唸った。
「―ダメだ!考えてもらちが開かねぇや。―こういう時は、寝ちまうに限るな」
と、徹也は早々にさじを投げた。
これには俺も大賛成で、
「そうだな、今日はこれでお開きにしよう」
と打ち切って、二人を部屋から送り出した。
「―ふぅ・・・・・。取り敢えず、計画成功だな。あとは、徹也に任せるしかないと・・・・」
俺は精神的に疲れて、大きく欠伸をすると、「もう寝よう」と一言呟いて、ベッドに倒れ込んだ。
三、月は美しいだけにあらず
何とか、計画は成功した。
俺自身実際に成功するかどうか不安だったので、今はかなりほっとしている。だが、あんなにすんなり(と言うほどすんなりもいっていないが)いってもいいのかと、未だに疑っているのも事実だ。そして、その疑問の答えは、計画の成功から三日経ったその日、一本の電話によってわかることとなる。
「―はい、西田ですが・・・」
昨日はほぼ徹夜で原稿を書き上げたために、午前十一時を過ぎた今でも、頭がボーっとしていた。
「一朗さんですね?私、岳神です」
岳神・・・・?あれ、徹也の声って、こんなに高かったっけ?それに、話し方も丁寧だし・・・・・。いや、待て、違うぞ。この声は徹也じゃなくて・・・・・、
「どうしたんです、裕子さん?わざわざ電話なんかかけてきて」
俺は少し驚いて、眠気はどこかに飛んでいってしまった。
「この間の旅行のお礼を申し上げたくて」
「お礼だなんて。たまたま叔父さんが開業記念に泊まっても良いって言ってくれただけですから」
と言いながら、俺は見えもしない相手に向かって頭を下げて恐縮していた。
「いえ、その事もそうなんですけど、一朗さんの方にお礼をと・・・」
「俺に・・・ですか?」
俺は、何か礼を言われるようなことをしたかと考えてみた。しかし、思い当たる節はない。
「俺に、何のです?」
と訊くと、彼女はさらりと、
「月を消して下さったお礼です」
と言った。
「え・・・・」
俺は、言葉を失った。一瞬、徹也が旅行が終わってから教えたのかとも思ったが、それも次の一言で否定された。
「あ、うちの主人から聞いたのではありませんよ。旅行の途中で―と言うより、月が消えてすぐに、自分で気が付いたんです」
「マジですか・・・・・」
事件の直後にトリックがばれては、推理作家としてはやっていけない。しかし裕子さんは、自分で気付いたと言う。それはつまり、俺の作家生命の終わりを示してはいないだろうか?
「―どういうトリックだと?」
作家生命に望みをかけて、俺は裕子さんに訊いた。
「月を物理的に消してしまうのは大変ですけど、視覚的に消す―つまり、見えなくすることは可能だっていうことですよね?」
裕子さんが微笑んでいるのが目に浮かぶ。そして、俺の作家生命が一気に十年ほど縮まった。
「でも、どうやって見えなくするんです?まさか、周りの林を高くするとか?」
一筋の希望にすがりつくように訊く。
「林を高くするより、私たちが動く方が簡単ですよ」
またさらに、十年は短くなった。もうここまで来れば、わかっている考えるのが自然だろう。つまり、俺の作家生命なんてたかだか三年ぐらいだったというわけだ。
「それで、具体的にどんなトリックだと?」
「建物全体が回転していた。―そう考えて良いんですよね?」
終わった、と思いながら、俺は言った。
「えぇ、そうです。最初に月を見た時には南側にあった部屋を、一時間かけて西―正確には北西に動かしたんです。そうすれば、元あった場所に月は見えない。―ベランダまで出れば、見えたんですけどね」
「そして、私たちが寝ているうちに戻しておけば、勘付かれてしまう心配もない、と言うわけですね」
「結局、うまくいきませんでしたけどね」
と、俺は笑った。
「―でも、どこで気付いたんです?普通なら、建物が回るなんて発想、なかなか出来ないと思いますけど」
俺は、一番知りたいことを訊いた。その返答いかんでは、作家生命に望みがあると思ったからだ。
「最初におかしいなって思ったのは、主人がお酒を飲んで倒れてしまった時です。主人は、ご存知だと思いますけどお酒には強いんです。だから、お酒に呑まれて倒れるなんてことはまずあり得ない。そのときに、『ウィーン』っていう音の正体に気が付いたんです。これは、建物が動いている音なんだろうって」
つまり、徹也は酒に酔って倒れたのではなく、動く建物の上で、「乗り物酔い」を起こしてしまったのだ。微かな動きであっても、酒を飲んでいたので余計に『酔い』やすかったのだろう。
「そうして、建物が動いているのがわかったら、月が消えてしまった。となれば、この建物は回っていて、その為に月が見えなくなったんだろうってわかったんです。そして、その計画者が一朗さんだってこともピンと来ました。少し前から、主人が私に不満を持っているらしいことも、わかってましたから」
「徹也の様子に気付いてたんなら、徹也に何か言ってくれれば良かったのに・・・・。そうすれば、俺も徹也でトリックを考えなくて良かったんですよ」
と、俺は少し愚痴をこぼした。
「すいません、一朗さん。―でも、あの人の気持ちを確かめる方法が、他に見つからなくって・・・・」
と、裕子さんは恥ずかしさのためか声を小さくして言った。
全く、この夫婦、大恋愛の末の結婚の割には、どちらもとてもオクテだ。これでは、見ているこっちがハラハラさせられてしまう。だが、そこがこの二人の良い所でもあるのだが。
「わかりました。そういうことなら、しょうがないですね。―で、結局、想像通りの反応って所ですか?」
「そうですね。一朗さんに相談するのは、いつもよっぽどの時ですから」
裕子さんの声が、明るくなるのがわかった。
「そのせいで、いつも苦労させられますけどね」
と、俺は苦笑した。
「そう言えば、あのホテル、どうしてあんな造りになっているんですか?」
と、裕子さんが訊いてきた。
「あぁ、その事ですか。僕も叔父さんに訊いたんですけどね、そうしたら、『お客さんのびっくりする顔が見れて面白いじゃないか』って言ってましたよ」
と、俺は呆れながら言った。
「本当に、面白い方ですね、一朗さんの叔父様は」
楽しそうに裕子さんが言った。
「子供なんですよ、単純に。―まぁ、それが良い所でもあるんですが」
「羨ましいですわ。―それでは、そろそろこの辺で・・・」
「えぇ。では、また―」
「ありがとうございました」
その言葉を最後にして、俺はそっと受話器を置いた。
―今回のことから、わかったことが三つある。
まず一つは、あの二人の仲は誰にも壊せないということ。これは、前々からわかっていたことだから、今更どうこう言っても仕方ないだろう。
二つ目に、裕子さんの頭の良さ―切れ具合が、想像以上だということ。普通、あんなに少ないヒントであのトリックを見破れる人間はそういない。つまり裕子さんは、外見のおとなしさとは裏腹に、人並み外れた頭脳の持ち主だということだ。
そして、最後に三つ目。二つ目のことから、裕子さん以外の人があのトリックを見破るのは難しいことがわかる。それはつまり、俺の推理小説家としての寿命も、そんなに短くはないということだ!
―完―